みんなの意見
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阪神大震災で親族(母親)を亡くした経験から言います。
あの時は当時の首相(村山)が、自衛隊に対して無知&理解がないために、出動が遅れたのは周知の事実です。
ハッキリ言えば国土と国民の安全を守る事に、無知で素人な総理や防衛大臣(当時は防衛庁長官)にはなってほしくないです。
まずは「素人」と言われる大臣の交代が先です。
何故、民主党内閣では毎回の組閣で外部の民間人を登用しないのか、不思議です。
自分たちが外交や防衛政策に素人なら、外部から登用すればと考えます。
さて、その上で編集部の提言である...
>震災から1年、どう社会が変わったと思いますか?そして、どのような社会になっていくべきだと思いますか?みなさんの「提言」をお聞かせください。
社会は変わっていませんよ、変わったのは個人の地震への対応や備えです。
阪神大震災直後も個人で地震への備えはありましたが、10年も過ぎれば忘れられています。
今回の震災でも10年後には【地震への備え】が忘れられてないかが心配です。
そして、大事なことは阪神大震災でも1年を経過したら仮設住宅での「高齢者の孤独死」が問題になりました。
今後は被災地でも問題になるでしょう、それについての対応を政府は無策です。
前回の震災での教訓をどこまで生かせるのか・どのように生かせるのか・どのように実施するのかが見えてきません。
現在は仮設住宅は冬季対策が主流になっています。
これは前総理の菅の「お盆までに」が9月までずれ込んだのが原因であり、冬季対策が後手に回っています。
今後は後手を踏まないためにも、阪神大震災を地元で経験した人を被災地対策として登用することです。
どのような社会になっていくかは、震災を地元で現実に経験した人を登用する勇気の有無で変わります。
教訓を求めるのであれば、なによりも経験が大事であり、「支援・復興・復旧」を担う大臣には経験者になって欲しかったです。(提言として)
色々と言いましたが、政権が変わろうとも、「防衛大臣には素人は無理」と言うことと、「社会は変わってない」(政府が対応してないので)、復興庁人事には阪神大震災での「現地での経験者」を望みます。
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matyapi-2011
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災害に備える、ということは対外武力攻撃を抑止する「国防」ということにおいては意味は違わないだろうとわたしは考える。
それは「危機管理」という命題に対して常に「最悪」を想定しなければならないことにあるからである。
戦後長らく国防を「他国に依存」してきた日本人は、「自らを守る」という国際社会に対しての生存権を放棄してきたのと同じなのである。
国内社会には警察は存在するが、国際社会には警察は存在しないのが実情なのだ。例えUN「国際連合(否連合国であるという意見もある)」があっても、である。
国内社会に仮に警察が存在していなかったならば、賊に自らの家庭(又は個人)が襲撃された場合、他人(米国)の支援を待つしかないのである。
隣家が襲撃されたならば、「集団的自衛権が行使できない」のでただ指をくわえて見ているしかできないのである。
これが現在の日本の状況なのである。
「守り」を依存している結果、自らは「何もできない」に等しいと言えるだろう。これが生存権を放棄しているということなのである。
幸い、日本の法律は個人の「武装」を禁止し、警察権力が国内の治安を維持している状態である。
しかし、国際社会は国家(国民)の「武装」を禁止しているわけでもなく、国際秩序が保持されているのは国家間の力のバランスの上に成り立っているのに過ぎないのである。
換言するのならば、「無法地帯」に属しているわけであり、自衛隊という実力と米国の軍事プレゼンスとの合力の上にかろうじて周辺諸国とバランスを取っているのに過ぎない、ということである。
国防は、国際社会で国家国民の生存権を主張できる唯一の手段であり最大の福祉なのだ。
戦後の日本はそれを米国に依存することで怠ってきたのである。
今回の震災による津波では、生きるために究極では自分自身を信じるというほかに術はなかったのではないだろうか?
その意味で、「危機的状況から自身を守る」という意味において、個人が自立した「自らの生命は自らが守る」ということを前提とし、「依存」から脱却するべきときではないかとわたしは思う。
同時に、国土保全も重要な国防政策の一環であり、日本は災害に対しても強靱な国家になるように子孫にもそれを継承していくことではないかと考える。
その意味から過去に建設したインフラなどは再度補強するべきものは補強し、これから高い確率で起こり得る関東から西日本太平洋沿岸部にかけての震災に対して備えるための資本投下を行うべきであると主張する。
それは、我々の代ではなく子々孫々未来永劫日本国の国民の資産となるからである。
戦後とか災後なる言葉にはあまり共感はしないが、国際社会で「生きる」という意味において、現在のありようをしっかりと見つめ直すべきときにきているものとわたしは思う。
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northernbear_2009 男/50代/北海道
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17ポイント (6人が評価)
理想像を云々する前に、理解しておくべきことがあります。
それは、光が当たる向こう側には必ず影が出来るように、すべての事柄には対極となる二面性があるということです。
つまり、一切の影が無く光で満ち溢れた社会は存在しえないということです。大切なのは、光と影のバランスです。強い陽射しは濃い影を生み、薄曇りならば影もそれなりに薄くなる。
また、晴天ばかりでは人の営みはおろか自然の営みは成り立ちません。曇りや雨の日も必要です。これは当たり前のことではありますが、えてして人は当たり前である「自然の理」を忘れてしまいがちです。
晴天が続くことを理想と勘違いしている感が無きにしも非ず、ではないでしょうか。そうであるなら、到底たどり着けない空虚な世界を追い求めることになってしまいます。
この度の東日本大震災で、我々人間は自然の前で如何に無力であるかを思い知らされました。震災から学ぶべきことは多々ありますが、最も重要なのは自然に対する畏敬の念ではないでしょうか。
自然との共存と言えば聞こえは良いですが、根底に自然をコントロールできるかのような錯覚があったのでは?原発事故の在り様がそれを物語っているようにも思えます。
現代のように科学的知識に乏しかった時代、人は自然に対してもっと謙虚だった。そして、自然の恵みに感謝し自然の力に対して畏怖し、決して逆らおうとはしませんでした。
それは、単に人間が無知だったからでしょうか?
現代人より、はるかに多くのそして奥深い生活の知恵を持っていたのでは?少なくとも現代人より、豊かさの本質を理解していたのではないでしょうか。
人間も他の動植物と同じように、自然のサイクルに組み込まれた存在でしかない。その大原則に立ち返った発想でこれからの社会がどうあるべきかを考えなければならない。
利便性や物質的な豊かさを追い求めてきた結果、社会は多くの捩じれや矛盾を多く生み出してきました。今の豊かさや利便性を享受する生活が当たり前と言う前提では道は開けません。
社会の影を薄く少なくしたければ、光を弱めたり角度を調節するといった工夫をする必要があります。
人は誰もが自分さえ良ければ、という思いを心の何処かに持っているものです。しかし、その思いが影を生んでいる事に目を向けようとしない。
自分に降り注ぐ陽射しはそのままにして、影をなくすことなど出来ません。影を薄く少なくするには、それなりの我慢や犠牲、奉仕が必要です。
光と影、善と悪、優しさと厳しさなど、それぞれ対極にある要素が片方だけでは成り立たないのが自然の理です。複雑になった社会で、対極にある要素のバランスを上手く調整する智慧が求められているのです。
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十種塾 男/50代/中国
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真っ向からお題を否定してしまうけど、「日本の社会の理想像」なんてものは無いんだ。
存在しない。存在しえない。存在してはならない。
災害対策、とか、経済政策とか、個別の政策があるだけです。
誰が提言して、どういう内容で、メリット・デメリットを挙げ、シミュレーションと議論で洗練する。
不利益を被る者への配慮や、改良のため実施後もデータを集め検討する。
そのような個別政策の地道な積み上げしかないのです。
理想像があり、社会を理想に近付けるための計画を実施する。これは発想自体が全体主義・共産主義をベースにした考え方なのです。
あるべき理想像を掲げることは、無意味で、とても危険なことです。
例えば、災害において「共助が実現する理想社会をつくりましょう。大震災ではボランティアが活躍しました」
確かにボランティアは活躍したし、ボランティアにしかできないことはあるし、無償の奉仕は美しい。
しかしながら、「美しい」で止まっていたのでは思考停止だし、「これからはボランティアだ」というのは責任放棄も甚だしい。
副知事でもある猪瀬氏が共助を語るべきではない。それは行政の責任放棄だ。
仮にも行政官なら「社会を変えるために政策をつくる」のではなく、「どんな社会になっても対応するための政策をつくる」ことを考えるべきだ。
美談は報道価値があるからマスコミがこぞって取り上げるが、地道な政策論議などは取り上げない。
多種多様な価値観と意見こそ大事なのです。
あえていえば、美辞麗句や私怨に満ちた報道に惑わされないような性格を作る、といったことが「社会はともかく個人の理想像」です。
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論屋 男/30代/中部
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自己責任について
詳細については
| >>続きは復興ニッポンへ
| http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20111226/294841/?P=...[html]
で下記のごとく書かれてある。
> 同時に、災後社会は自己責任の時代ということでもある。それは個人がすべてを負うのではなく、日本列島で災害を生き抜いてきた記憶を持つ一員として責任を分担するという意味だ。
> 震災後には、人々のあいだで「国難」という言葉が自然に出てきた。災害を生き抜く日本人の共通の記憶が呼び起こされたからだろう。孤立した個人ではなく、共通の基盤、認識のうえに立つ個人として戦っていく、災後型の自己責任社会が求められている。
ここで見ていたら人によっては、自己責任の役割分担や範囲についてとらえ方が違う。
それは、自助・共助・公助というものに影響が及ぼすと思う。
代表的なのは
イラク日本人人質事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E6%...[html]
こんなのも
「上から目線」の自己責任論が、自分を責め抜き疲れ切っている弱者を黙らせさらに痛めつける|すくらむ
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10324546631.html
はたまたこんなのも
JR福知山線脱線事故に関して
天海大地の世相に喝!: JR福知山線脱線事故マンション住人の自己責任
http://pub.ne.jp/tenkaidaichi/?entry_id=2823260
> 線路のカーブにある物件を選んだのは住人の自己責任であり、慰謝料は別に支払われているのだから購入金額を越える物件代金を要求するのは筋違いである。
> 最近はこの手の、何でも自己の責任を他人に転嫁する輩が非常に多い。
同じ問題でも
責任 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AC%E4%BB%BB
> 列車が衝突したマンションの住民に対して自己責任論を唱える人物もいる。マンションは線路のカーブから近接した場所にあり、最悪の事態も想定できたであろうから、損害の一部は住民が自己責任として負担すべきという。
この特集の根本ともなる問題。
再度、問うが自己責任の範囲が曖昧となれば、自助・共助・公助ましてや以降のそれぞれのトピに波及するのは明らかだ。
自己責任とは?
by
唯我独尊




