【仰天野球㊙史】#18
今年は戦後80年。1945(昭和20)年3月の東京大空襲などを特集するメディアが見受けられるが、東京裁判(極東国際軍事裁判)で裁かれた戦争犯罪者(戦犯)を収容した巣鴨プリズンでプロ野球の試合が行われている──。裏面史に潜む一ページである。
東京裁判は46年5月に始まり、48年11月に判決が言い渡された。間もなく「平和に対する罪」を問われたA級戦犯7人が死刑に。処刑があったのは巣鴨プリズンだ。
その巣鴨プリズンで野球の試合が行われたのは52年3月28日。カードは読売ジャイアンツVS毎日オリオンズで、一軍ではなく二軍同士の試合だった。両チームを持つ全国紙が政府の要請に応じたのである。
試合は9-3で毎日の勝利。三回表、毎日に先制点をもたらす適時打を放ったのが山内和弘。“シュート打ちの名人”と呼ばれた大スターの若き姿だった。巨人には好打の岩下守道一塁手や名脇役の内藤博文二塁手ら、間もなく一軍でプレーしたホープがいた。
監督は毎日が若林忠志。2年前の初の日本シリーズ第1戦で勝利投手になっていた。“七色の変化球”の異名を取り、戦前からの有名野球人だったから、収容者は誰もが知っていた。もっとも大きな拍手を受けたという。巨人では内堀保。沢村栄治の投球を受けたことで知られる。
この試合の2カ月ほど前に開いた大相撲の「慰問相撲大会」が好評だったことからプロ野球に声がかかった。野球も大好評となり、5月には巨人と毎日、国鉄スワローズの3チームで二軍戦変則ダブルヘッダー。その後、女子野球も慰問試合を開催したそうである。
この拘置所のグラウンドは外野まで100メートル以上ある広さだった。1000人以上の収容者は大盛り上がりで、敵国として戦った米国の発祥スポーツを歓迎した不思議な光景。すでに姿はなかった東條英機らA級戦犯がその場にいたら、どんな思いだっただろうか。
豊島区東池袋にあった巣鴨プリズンの跡地は今、横文字のサンシャインシティとなって人気スポットになっている。
(菅谷齊/東京プロ野球記者OBクラブ会長)