【仰天野球㊙史】#19
プロ野球90年の歴史で「エピソード満載のオーナー」といえば田村駒治郎。“ラッパ”こと、あの永田雅一(大映映画社長)もかなわない。
大阪・船場の大店、繊維を扱った「田村駒」(たむらこま)の大旦那。若い頃、ビジネスの勉強で渡米した際に大リーグの試合を観戦し、熱烈な野球ファンになった。
待望のプロ野球に参画したのは1937(昭和12)年。大東京を買収してチーム名を「ライオン」(本拠・大阪)に。41年に「朝日」と改名し、その後も「パシフィック」「太陽ロビンス」とひっきりなしに名前を変えた。理由は「勝てるように」。まるで神頼みのようだった。その「太陽」も1年足らずで「大陽ロビンス」と変えた。
47年の成績が50勝64敗5分けで下から2番目の7位。その前年も42勝60敗3分けだったこともあって「打てない!」と怒り、「太」を「大」と“点を取る”に掛けた文字遊び。神様も戸惑ったことだろう。だが、改名したその48年も61勝74敗5分けの8球団中6位。屁理屈は通用しなかった。
典型的なタニマチ気質で別荘内に合宿所を作り、食事もたっぷりなど選手をかわいがった。オープン戦で1位になっただけで祝勝パーティーを開いたことも。戦後も野球復活のための幹部による会合を東京・赤坂の別邸で開くなど力の入れようは半端ではなかった。通称「田村駒」、球界を飛び回った。
情熱が結果に結びついたのはセ・パ2リーグになった50年。松竹と資本提携して「松竹ロビンス」となり、エース真田重男の39勝、主軸小鶴誠の51本塁打でセ優勝を飾った。日本シリーズでは毎日オリオンズに敗れたものの、田村駒は歓喜の渦のなかで持ち芸の裸踊りをやってのけた。70年に殿堂入り。
繊維不況のあおりを受けて53年に球界から去った。最後までチームの売却には抵抗したといわれる。田村駒が愛したチームは大洋ホエールズなどを経て昨年日本一のDeNAとなった。
(菅谷齊/東京プロ野球記者OBクラブ会長)