長嶋茂雄さんは当然のように電車改札を「顔パス」しようとして、駅員に捕まった【プレイバック「私が見た長嶋茂雄」】#9

【プレイバック「私が見た長嶋茂雄」】#9

 “燃える男”、“ミスター”の愛称で国民的人気を誇ったプロ野球元巨人監督の長嶋茂雄さんが6月3日、都内の病院で肺炎のために亡くなった。享年89。選手、監督として数々の伝説、逸話を残した「ミスタープロ野球」は、身近に接した誰もにそれぞれの「長嶋茂雄像」を強く印象づけてもいる。日刊ゲンダイの連載で多くの球界OBが語ってきたその実像を再構成して緊急公開します。

 今回はアナウンサーとして長年スポーツ中継に携わった山田透氏による「雨でもマイクは離しません」の第1回(2008年掲載)を再公開(本文中の年齢・肩書きなどは当時のまま)。

  ◇  ◇  ◇

「いやー、どうも。長嶋ですぅー」

 長嶋さんが巨人監督を解任されたのが昭和55年。それから12年間、充電をするのだが、58年、西武球場で行われた西武-巨人の日本シリーズのラジオ解説をお願いした。

 放送ではシリーズのデータを調べる係りだったが、試合終了後、長嶋さんを球場から池袋駅まで送り届ける役を仰せつかった。それも次のスケジュールが入っているため、急いで都内に戻らなければならなかった。

 球場から所沢の駅までハイヤーでお送りし、特急レッドアロー号に無事乗せなければならない。

 車が所沢駅に着くと私は切符売り場にダッシュ。時刻表をチェックし、池袋までの切符を買い求めようとした。そのときだった。ツカツカと改札口までやってきた長嶋さんが、

「どうも、長嶋ですぅー」

 と軽く右手を上げて改札口を通ろうとするではないか。

「ど、どうしよう、まだ切符買ってないし……」

 と焦る私にお構いなく、長嶋さんは改札口を素通り。駅員の方もあっけにとられていたが、やがて長嶋さんであることに気が付くと、駅長さんが飛んできた。そして、

「あっ、長嶋さん、ささぁ、どうぞこちらへ」

 と駅の応接室に案内したのである。

「どうも、どうも」

 と長嶋さん。遅ればせながら私も後ろから付いて行った。

応接室ではお茶、お菓子が出され、チケットも用意される。まさに至れり尽くせりである。

 もっとも駅長さんもしっかりしていた。色紙を10枚持ってこさせると長嶋さんにサインをお願いしたからだ。

「いいですよぉ」

 と言いながら長嶋さんはスラスラとマジックを走らせてサインをした。

 それまで長嶋さんの伝説はいくつも耳にしていた。駅の改札口素通りもそのひとつだったが、まさにその長嶋伝説を目の当たりにしたのである。

 あれから25年。

 球場から所沢駅までハイヤーの中で長嶋さんと2人っきりになったが、そんな経験は後にも先にもそれ1回きり。初めての体験にハラハラドキドキしたのを思い出す。長嶋さんが初めて監督になった昭和50年は私がアナウンサーになった年。特別な縁も感じていた。

「山田君はアナウンサーは何年目なのぉ?」

「今日の僕の解説、どうでしたかぁ?」

 車中、長嶋さんからこんな質問を受けたのだけは覚えているが、どんな答えをしたのか、他にどんな会話があったのか、まったく記憶がない。

▽山田透(やまだ・とおる) 昭和26年10月20日、秋田県生まれ。秋田南高〜明治学院大。50年にラジオ日本に入社し、58年にニッポン放送に移籍。平成9年にフリーアナとなり、現在ニッポン放送ショウアップナイターを中心にフジテレビ、CS放送で野球中継、番組を担当。高校野球、プロ野球、大リーグなど延べ3000試合以上の取材、1000試合以上の中継。王貞治とバルセロナ五輪のキューバ戦、ナゴヤ球場のルーキー近藤真市の巨人戦無安打無失点デビュー戦、日本シリーズなどを中継した。

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 当連載【プレイバック「私が見た長嶋茂雄」】は随時公開。

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