長嶋茂雄が猛批判された日「清原に送りバントはねえだろう」巨人オーナー・渡辺恒雄は疑問も…清原和博は長嶋から“1本の電話”「この人には敵わない」

元巨人で“ミスタープロ野球”の愛称で親しまれた長嶋茂雄さんが6月3日、肺炎のために亡くなった。89歳だった。2001年、巨人監督時代に波紋を呼んだ采配“清原バント事件”とは何だったのか。ジャイアンツに植え付けた「フォア・ザ・チーム」の精神とは。 ※敬称略。肩書きなどは当時

 1996年オフ、長嶋茂雄監督に「僕の胸に飛び込んできてほしい」という言葉を掛けられ、FAで巨人に移籍した清原和博が近年、プロ野球の試合で解説を務めると、たびたび出てくる話がある。

 忘れもしない甲子園での“犠牲バント”である。昨年8月27日のヤクルト対巨人戦(神宮)、4回表に投手の山﨑伊織が犠打を決めると、現役時代のバント経験を聞かれて「長嶋監督の時に。打点王争ってたのに、ノーアウトランナーセカンドで」と即答した。

勝負強い清原に“まさかのバント指示”

 2001年前半戦、巨人はヤクルトと首位を争っていた。原動力は「5番・ファースト」で勝負強さを発揮する清原だった。だが、7月17日の阪神戦(甲子園)、同点の8回表に先頭の松井秀喜が二塁打を放つと、長嶋監督はこの日2三振の清原にバントを命じる。試合後、ミスターはこうコメントした。

〈あそこはどうしても1点という場面だった。清原は今日(タイミングが)合っていなかったから。清原といえど悪ければ、フォア・ザ・チームだから〉(2001年7月18日付/日刊スポーツ)

 巨人は1死三塁の好機を作ったが、6番・高橋由伸は平凡なセカンドゴロ。7番・元木大介が敬遠され、8番・阿部慎之助の代打・清水隆行は一塁線に鋭い当たりを放つも、八木裕に好捕されて無得点に終わる。9回表、巨人は2死満塁のチャンスで、清原を迎えた。しかし、空振り三振。その裏、リリーフの條辺剛が上坂太一郎にサヨナラヒットを打たれ、大事な一戦を落とした。

〈3割打って、打点トップの打者にバントをさせるんだから由伸が決めなきゃなあ。清原はよく決めた。見事だった。立派だった〉(2001年7月18日付/日刊スポーツ)

評論家もナベツネも批判「信頼が壊れる」

 長嶋監督は称えていたが、清原のコメントからは不満の様子が伝わってくる。

〈サインが出たからやったんや。最後はいい場面だから打ちたかった〉(2001年7月18日付/スポーツ報知)

 新人の時以来、15年ぶりとなる犠牲バントの質問には素っ気なく対応し、9回の三振を悔やんだ。

 各スポーツ紙の評論家は長嶋采配に疑問を呈した。監督として日本一に導いた元指揮官たちはこう書いた。

元阪神監督・吉田義男〈今年の清原は、巨人の扇のかなめの存在。打撃も好調だし、あそこでバントはベンチとの信頼関係が壊れるだけです〉(2001年7月18日付/日刊スポーツ)

元横浜監督・権藤博〈相手が怖がっているのは一体何なのか。巨人ベンチにはもう一度考えてもらいたい。(中略)次の高橋由にかかる重圧の大きさ、これはすさまじいものがある〉(2001年7月18日付/スポーツ報知)

 清原へのバント指令は大きな波紋を呼んでいた。渡辺恒雄オーナーも疑問を呈した。

〈分からんなあ。打たせるべきだと思うが、監督がいいと思ったんだろうな。でも、清原に送りバントさせることはねえだろう〉(2001年7月19日付/スポーツニッポン)

〈清原にバントさせることはないだろう。オレは打たせるべきだと思うが、仕方ないな。(さい配は)長嶋監督がいいと思ったことだろうしな〉(2001年7月19日付/スポーツ報知)

「清原、ナイスバントだよ」

 翌朝、長嶋監督はホテルの部屋に電話を掛け、「清原、ナイスバント。ナイスバントだよ」と褒めたという。清原の気持ちは落ち着いた。

〈あんときな、むしゃくしゃしていたことなんてどうでもよくなって笑えてきた。ああ、この人にはどうあっても敵わないんだと思ったわ〉(2022年7月発行/書籍『虚空の人 清原和博を巡る旅』鈴木忠平・著/文藝春秋)

スター軍団こそ自己犠牲…長嶋の真意

 実は、長嶋自身もMVPと打点王を獲得した1968年、阪神と優勝を争っていた終盤の10月2日のサンケイ戦(後楽園)で犠打を記録している。延長10回無死一、二塁で送りバントを1球で決め、巨人は末次民夫の押し出し四球で勝利。試合後、ミスターはこう話した。

〈ははーん、バントだな、と思っていたら、監督に、バントでいくぞ、といわれたんだ。きょうのオレのでき、最低だったからなあ〉(1968年10月3日付/読売新聞)

 この日の長嶋は右腕の河村保彦に4打数ノーヒット。相手のスライダーを褒め称えつつ、自身のバントに触れた。

〈どうだい、オレだってやらせてみればうまいものだろう。最高のバントだったね〉(1968年10月3日付/報知新聞)

 4日後の中日戦(中日球場)では、同点の延長11回無死一、二塁で、王貞治も犠打をした。この後、2死満塁から柴田勲が左中間フェンス直撃の二塁打を放ち、巨人は接戦をモノにしている。不振を託っていた王は、こう話していた。

〈ぼくのいまのバッティングでは送りバントを命じられるのは当然だな〉(1968年10月7日付/報知新聞)

 川上哲治監督はONにも遠慮せず、勝負所でバントを命じていた。そして、2人の犠打はいずれも得点に結びつき、巨人は阪神を振り切って、V4を達成した。

 この経験があったからか、清原のバントについて聞かれたダイエーの王監督は〈あれが勝っていたらどうだ? 結果で判断しては駄目だ〉(2001年7月26日付/スポーツニッポン)と長嶋采配を擁護している。王も巨人監督時代、主砲の原辰徳にバントを命じ、4つの犠打を決めさせている。

「石橋を叩いても渡らない」と評された堅実な作戦を取る川上に対し、ONには攻撃的な監督というイメージがあるだろう。しかし、2人とも勝負への厳しさを持ち、個人よりチームを優先する「フォア・ザ・チーム」の川上采配を継承していたのだ。

 選手としてONに仕えた原辰徳も指揮官として阿部慎之助や坂本勇人、岡本和真という主力に犠打をさせている。清原のバントを間近で見た高橋由伸も3年間の監督時代、ベテランの阿部に年1個ずつ犠打をさせている。

 そして、新人の年に清原が甲子園でバントを決めたシーンをベンチで見ていた阿部監督も自己犠牲の精神を重んじ、就任以来バントの大切さを何度も力説している。

 ONも原も清原も阿部も全盛期にバントをしている巨人には、「フォア・ザ・チーム」の伝統が脈々と受け継がれている。誰よりも巨人を愛し、勝利を渇望した“ミスタージャイアンツ”長嶋茂雄は野球の星に帰っても、13年ぶりの日本一を願っている。

文=岡野誠

photograph by KYODO

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