「昭和維新と明治維新には似ている点と違う点がある」と、上智大学名誉教授の故・渡部昇一氏は語っています。かたや徳川家を中心とした武家支配から天皇親政へと政治・経済・社会の大変革をもたらし、近代化と西洋化に向かった政治的革命。一方は、財閥や議会政治を倒し、天皇と国民が「君民一体」となる国家への改造を求めた軍部によるスローガン。こうした両者について、渡部氏の意見はどうなのでしょうか。

●幕末の志士と昭和の青年将校の共通点は?

 明治維新は、当時の人たちには「御一新」と呼ばれていました。お上の命令により、世の中がすっかり新しくなってしまったというのは、庶民たちの素直な実感だったように感じられます。そんな御一新を推進したのは、もちろん薩摩・長州藩をはじめとする倒幕派の若い下士たちでした。西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山県有朋ら維新の元勲たちも、総じて下級武士の出身だったことはよく知られています。

 一方、昭和11(1936)年に起こった二・二六事件の中心だった皇道派の青年将校たちはどうでしょうか。渡部氏は、当日の指揮に当たった栗原安秀中尉、安藤輝三大尉、野中四郎大尉、村中孝次元大尉、磯部浅一元一等主計らが、当時の陸軍エリートの登竜門とされた陸軍大学校にいけなかった(村中のみが進学するが中退)ことに着目しています。「もはや軍全体を動かせるほどに出世することが見込めないから、武力を使ってでも自分たちが目指す天下を実現したいという野心もあったかもしれない」というのです。

 渡部氏は、青年将校へのまなざしを「多少勘ぐりになる」と自称していますが、明治維新との類似点として見落とされてきた点かもしれません。ちなみに選出の維新の元勲5人の明治元年における平均年齢は35歳足らず、青年将校たちの享年の平均は約28歳です。


●江戸末期は黒船が到来し、大正には赤旗が翻る

 大いに「違う点」として渡部氏が挙げているのは、「外圧」の種類です。明治維新のときには、欧米列強による圧力という国難がありました。ペリーの黒船来航は「御一新」の15年前。一つ間違えば植民地にされる危険を、庶民は肌で感じていたでしょう。一方、五・一五事件から二・二六事件に至る昭和維新に先立つ時代、世界を揺るがしていたのは、経済的には世界大恐慌、思想的には社会主義でした。「社会主義がなければ昭和維新という発想はなかった」と、渡部氏は断言しています。

 実際、1910年代から20年代にかけての「大正デモクラシー」は、世界の動きと連動していました。1917年にロシア革命、1919年にはドイツ革命。1920年、ヴァイマル共和政のもとに発足したナチスも、正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」なのです。

 二・二六事件に直接的関与はないものの、理論的指導者として逮捕され、死刑になった北一輝の思想もまた、「国家社会主義」と呼ばれることがあります。主著と言える『日本改造法案大綱』に記された華族制廃止や私有財産の制限などには、明らかに社会主義的な傾向がみられます。

●経済の厳しさが軍部の横暴を加速した

 ロシア革命によってソ連という国がつくられたことの影響は大きかった、と渡部氏は言います。皇道派青年将校たちが目指していたのは、天皇陛下に忠節を尽くすことを除けば「革命」にほかならなかったからです。彼らは結局天皇により「叛乱軍」と名指しされ、自死や投降・処刑に至ります。

 ナチス・ドイツやソ連のプロパガンダは、大恐慌の後、苦境にあえぐ資本主義列強を尻目に大躍進しているように見えたのでしょう。実際にはドイツは深刻な不況に陥っていましたが、ヒトラーの公約「国民にパンと職を与える」により、「帝国アウトバーン」の建設が進められ、ドイツを後の自動車大国へと成長させていく礎となります。

 二・二六事件の余波として、皇道派が全く力を失った後、主導権を握った統制派が太平洋戦争に至る諸政策を推進していきます。昭和13(1938)年の「国家総動員法」制定は、その象徴です。渡部氏は、国家総動員法による統制経済が厳しくなる時代を生きた伯母の証言を紹介。「軍人さんに占領されているみたいだね」の言葉の裏に、日本人に初めて芽生えた「反軍思想」の正体を読み取っています。