太平洋戦争中、軍都・広島に電気を送るため、現在の広島県安芸太田町に水力発電所の建設が計画された。建設作業を担ったのは中国人。1944年に360人が日本へ強制連行され、過酷な労働のほか原爆にも遭い、合計29人が命を落とした。発電所は戦後の1946年に完成し、現在も「安野発電所」として現役で稼働している。
 実際に働いた中国人の生存が確認され、悲惨な強制労働の実態が明らかになったのは1992年、今から30年前のことだ。広島の水力発電に限らず、日本の各地で強制連行と強制労働を強いられた中国の元労働者たちは、日本政府や企業に損害賠償を求めて訴訟を起こしたが、日本の裁判所でことごとく退けられた。
ただ、この水力発電所については、元労働者たちと、建設したゼネコン準大手の西松建設の間で和解が成立した。一体なぜ和解できたのか。関係者をたどり、一連の経緯を追った。(共同通信=佐々木夢野)

 ▽栗栖さんの証言
 戦時中、安野発電所の建設現場では西松建設の監督の下、日本人や朝鮮人の現場監督を置き、中国人を使役したとされる。当時、現場近くに住み中国人収容所の様子をよく知っている男性が、広島市に住んでいた。栗栖薫さん(93)だ。訪ねていくと「逃げ出した人はこん棒で殴られていた。痛ましかった」と話し、次のように詳細に語り始めた。

 「4カ所あった収容所のうち1カ所が、当時の自宅から300メートル先にあった。自宅に西松建設の監督が間借りしていた縁で父は収容所の監視員になり、15歳だった私もよく連れて行かれた」
 「日本人の男はみんな戦争に行き、現場では中国人と朝鮮人が働いていた。中国人は発電所に水を送るための約8キロにわたるトンネル工事などに従事していた。夏ごろには朝晩、収容所と現場の間を『イー、アル、サン(一、二、三)』のかけ声で歩いていたが、やがて秋ごろには元気がなくなり、声が聞こえなくなった。雪が降ってもはだしで歩いていた」

 「収容所は100人が入れられ、2交代で50人ずつ仕事に出た。昼でも室内は薄暗く、冬には冷たいすきま風が吹き込んだ。布団も薄く、衣服も粗末。食事はドングリの油をしぼったかすを小麦粉に混ぜた握り拳ぐらいのマントウ1個だけで、皆立ったまま食べていた」
 「劣悪な労働環境や生活で、けがや病気をする人も多く、働けなくなると食事を減らされていた。逃げ出して捕まった人が後ろ手に縛られ、こん棒で太ももを殴られるのを見た。痛々しい声が町に響いた」
 「1998年に謝罪と賠償を求めて元労働者や遺族が西松側を提訴した裁判では、私も証言した。戦中とはいえ、気の毒だった。私個人の人生の出来事ではない。日本の軍国主義の姿であり、語り継がなければいけない」

 ▽元労働者の手記
 戦後長い間、こうした安野発電所建設の強制連行・強制労働は、日本でも中国でも問題化することはなかった。それが企業の責任を問うことになったきっかけは、戦後47年がたった1992年、元労働者の1人、張廉さんが、中国の河北大学に当時のことを記した手記を届けたことだった。
 手記にはこうある。「夜間は監視がさらに厳しくなり、少しでもうっかりしたことをやれば、ひどく殴られたり背中を火で焼かれたりして、毎日酷たらしい叫び声がしました。(中略)当時のあり様は、とても口では言い表せません」
 この手記をきっかけに、大学と広島市民の日中共同調査が始まった。他の生存者を捜し出し、証言を通して徐々に強制労働の実態が明らかになった。広島市の刑務所で収監中に被爆した元労働者が中国で生きていることも判明した。

 「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」の事務局長・川原洋子さん(72)はこれまで、何度も訪中し、調査・支援してきた。「当時、既に戦後から50年近くたっていたのに、元労働者の記憶は鮮明で驚いた。日本では忘れられた歴史となっていて、立場の違いを感じた」
 刑務所で収監中に被爆した元労働者の呂学文さん(2003年死去)らが1993年、戦後初めて日本を訪れ、西松側に謝罪や補償を交渉した。しかし、西松側は「強制連行は国策だった。できる限りのことをした」と回答した。

 ▽裁判、そして敗訴
 交渉は進まず、1998年に呂さんら元労働者や遺族ら計5人が広島地裁に提訴。
 2002年7月の広島地裁判決は「強制連行および強制労働とのそしりを免れず、不法行為というべきだ」と認定した上で、西松側の安全配慮義務違反があったことなども認めた。ただ、訴えを起こすのが遅すぎるという理由で、賠償請求は認めなかった。
 5人は納得できず、控訴。すると2004年7月の広島高裁判決は請求通りの支払いを命じた。理由は「西松側が消滅時効を主張するのは、正義に反する」というもので、元労働者の逆転勝利となった。当時は中国人の強制連行に対する訴訟が日本各地で起こされていたが、高裁レベルで労働者側が勝訴したのは初めてだった。
 しかし、3年後の2007年4月、最高裁判決はこの高裁判決を覆した。理由は「1972年の日中共同声明などで、戦争被害に対する中国人個人の裁判上の賠償請求権は放棄されている」というものだ。言い換えれば、戦争で個人が受けた被害について、相手国や企業に賠償を求めることは、政府間の取り決めでできないという判決だった。個人の請求権までなくなったかどうかには議論がある。しかし、最高裁のこの解釈によって、労働者の敗訴が確定した。ただ、判決文の中には最高裁のこんな「付言」があった。
 「関係者に、被害救済に向けた努力をすることが期待される」

 ▽突然の異変、そして和解へ
 最高裁での敗訴後、川原さんは「裁判が終わり、もう諦めるしかないと思った」と振り返る。それでも、川原さんら「中国人強制連行・西松建設裁判を支援する会」のメンバーは、西松建設の株を買って株主総会に参加して強制連行の問題を問いただすなど、努力は続けていた。
 そんな中、異変が起きる。2009年、西松建設で巨額の献金問題が発覚し、政治資金規正法違反事件に発展。西松建設幹部らが後に有罪になった。社会的な評価を著しく落とした西松側から、労働者たちとの和解を探り始める動きが出てきた。裁判で争った労働者側に「問題を解決したい」と申し入れてきた。
 2009年10月23日、西松建設は、謝罪と、2億5千万円を信託して被害救済に向けた「西松安野友好基金」の設立などを条件に、元労働者側と東京簡裁で和解した。戦後補償を巡る数々の訴訟の中で、賠償責任を否定された企業側が自主的に金銭補償に応じるのは、当時としても異例のことだった。

 西松側は以下のようなコメントを発表し、和解を申し出た理由を説明している。「不祥事を踏まえ、新生西松建設となるべく、過去の諸問題について見直しを続けてきた。その中の大きな課題として強制連行があり、最高裁判決の付言に対し、どう応えていくのかという問題があった。和解成立に至り、中国人当事者や関係者の努力に感謝する」
 1年後の2010年10月23日、和解事業の一環で、建設現場跡地に「安野中国人受難之碑」が建てられた。元労働者360人全員の名前が刻まれ、西松と元労働者の連名で、強制労働の事実と「歴史を心に刻み、日中両国の子々孫々の友好を願ってこの碑を建立する」と記されている。

 ▽歴史継承の追悼式
 その後は毎年、友好基金を原資とする追悼式が、安野中国人受難之碑の前で開かれてきた。2017年に和解事業が終結した後は、支援する会を引き継ぐ「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」が単独で主催。これまでに中国から延べ約200人の元労働者や遺族が参加した。川原さんは「碑があることで毎年集い、歴史を振り返ることができる。継承の役割を担う碑の存在は大きい」と話す。
 今年は15回目となる追悼式が10月23日に開かれた。継承する会世話人代表の足立修一弁護士があいさつした。「今年は日中国交正常化50年の節目。和解事業で築かれた日中間の友好と交流をさらに深め、被害者を追悼し、歴史を継承していく」
 出席者は約50人。新型コロナウイルスの影響で中国側の参加はなかったが、こんなメッセージを寄せている。「受難者を追悼し、碑文を心に刻んで、歴史を繰り返さないために、私たちは両国の人びとの友好を深める努力をしなければなりません」

 ▽和解は出発点
 追悼式の前日には例年、広島市内でシンポジウムが開かれる。今年10月22日のシンポでは、和解交渉を務めた内田雅敏弁護士が講演した。
 内田氏は、当時、西松建設との和解に反対する中国人もいたと明かした。背景には「花岡事件」の和解を巡るあつれきがあった。これは秋田県の花岡鉱山で戦時中、中国人が過酷な労働に抵抗して蜂起し、多数が死亡した事件だ。この事件でも、使用者側の鹿島と被害者側との間で2000年11月に和解が東京高裁で成立している。ただ、和解後になって鹿島側が「補償や賠償の性格を含むものではない」と法的責任を否定したため、批判が起きた。中国側には、この時のことを念頭にした反対論があったという。
 内田氏はこう続けた。「当初、西松との和解に反対した中国人も、毎年元労働者や遺族を招いた追悼式が開かれていることを知る中で、そういった思いは消えていった。広島の地で、加害者である日本人が強制労働の問題を考えてくれているというのが彼らに伝わり、そして私たち日本人も加害の事実を捉え直した。歴史問題の解決は司法の執行では終わらない。和解は出発点だ」

 ある遺族は、現場跡を訪れた際、現在管理する中国電力の担当者に「父親が作った発電所を末永く使ってほしい」と伝えた。戦後長く稼働し続ける発電所を建設した父親たちを誇りと捉えたのだろうか。担当者もすぐに「はい、大事に使わせていただきます」と応じたという。
 2012年、尖閣諸島を巡って日中関係が悪化した。その年の追悼式にも、中国から足を運んでくれる遺族がいた。これまでに来日した遺族の1人は「和解事業を通してこの受難之碑が、いつか日中友好の碑になる」と語った。内田氏は発言を振り返り、結びの言葉を述べた。「これこそがまさしく和解だ。国同士はどうであれ、歴史問題は、最後は人と人のつながりです」