第二次大戦終了後75周年―。欧州では、広島・長崎の原爆の日などに、人類の負の歴史を思い、平和のための行動を起こすさまざまなイベントが行われるはずだった。筆者は新型コロナ感染が日本でも拡大しつつあった3月、広島県竹原市の大久野島を訪れた。今では、ウサギの島として観光客に人気のこの小さな島は、実は、筆者の住むベルギーと戦争遺産でつながっている。そのつながりとは『イペリット』と呼ばれる毒ガス兵器であることを、愛くるしいウサギたちが沈黙のうちに伝えている。(ジャーナリスト=佐々木田鶴)

 ▽40年近く隠され続けた事実

 「大久野島に行きたいのですが」。JR広島駅の観光案内で尋ねると、「ああ、ウサギの島ですね」と、かわいいウサギの写真のついたパンフレットを渡された。大久野島は、若い女性や外国人観光客に、「ウサギの島」として人気を集め、この十年ほどの間に年間40万人近い人々がやってくるようになった。だが、筆者の目的はウサギではなかった。

 ベルギー西部の都市イーペルは、第一次世界大戦(1914〜18年)で、連合軍とドイツ軍が激しい塹壕戦を繰り広げた激戦地として、欧州ではよく知られている。そのイーペルで、ドイツ軍が始めて実戦に用いた毒ガスがイペリットだ。その毒ガスが、この島で日本陸軍によって秘密裏に製造され、第二次大戦中、南方戦線や中国戦線で大量に用いられ、8万人もの命を奪ったとされる。長らく地図上から消されていたというこの島を訪れた。

 JR呉線の忠海駅近くにある波止場から船に乗ると、大久野島はすぐ目と鼻の先だ。

 大久野島毒ガス資料館パンフレットによると、29年から45年まで、イペリットを中心とする各種の毒ガスや催涙ガスがこの島で製造されてきたことは、84年に報道されるまで、ほとんど知られていなかった。化学兵器の製造や使用の実態は、戦中はもちろんのこと、戦後も慎重に秘匿され、旧軍関係者以外には知る者がいなかったからだ。

 この工場では、毒ガス製造とは知らず、約6500人もの人々が職務についたという。だが、すぐに、誰もが皮膚、目、喉から全身に被毒し、何人もが命を落とすような事故が起こるに至り、毒ガスの恐ろしさや作業の危険性を思い知ることとなった。彼らの多くは終戦とともに、毒ガス製造にかかわったことで占領軍に捕らえられる恐怖におびえ、その後は英米軍による焼却や海洋投棄にも関わらされのち、被毒の後遺症が悪化してガンなどの重篤な病気や障害に苦しめられてきた。(『毒ガス島の歴史<大久野島>』より)

 それなのに、なぜ、事実が明るみに出されるまでに、40年も待たねばならなかったのか。

 ▽軽視される負の遺産

 1968年、島には国民休暇村ができ、88年には毒ガス資料館が建てられた。それなりの展示や説明を期待していた筆者は愕然とした。いくつかのガラスケースに、開館当時に作られたままとみられるパネルと写真と防護服などが、旧態依然と陳列されているだけだったからだ。しかも、当時の発電所跡や貯蔵庫跡などの遺跡を管轄する環境庁は、何度も取り壊そうとしたのだという。

 世界では、ユネスコの世界遺産でも見られるように、人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための教訓となる遺産は重視されている。欧州では、こうした負の遺産にも、EUや加盟国の文化・教育省庁から予算がついて、しっかりした歴史家やキュレーターによる解説や、IT手法を駆使したインタラクティブな展示が行われるようになっている。

 欧州の小国ベルギーでさえも、イペリットが初めて使われた第一次世界大戦の激戦地イーペルや、また、第二次世界大戦で、ナチスドイツと解放軍の最後の激戦が繰り広げられたバストーニュには、複数の言語に対応し、大人も子どもも、男性も女性も、それぞれの視点で学び、感じ、考えることのできる渾身のミュージアムが整備されている。

 ▽戦争を伝えるということ

 初代館長を務めた村上初一氏は『毒ガス島の歴史<大久野島>』で、次のように書いている。

 大久野島の毒ガス製造こそ、戦争の加害性であり、他の何物でもないのである。この過ちは絶対に繰り返してはならない。(中略)戦争の被害と加害の両面を認識し、恒久の平和を求めていこう。

 バストーニュの戦争博物館では、最後の劇場展示を、敵国ドイツ人将校のこの言葉で締めくくっている。

 我々は人を愛し、いたわり合うためにこの世に命をえたのだ。

 瓦礫と死と血の海から、同胞愛が生まれることを切に願う

 第二次世界大戦終了後75周年にあたる今年は、コロナ禍で観光の足も途絶えがちだ。だが、今こそ、平和と同胞愛を実現するために一人一人が行動しなければならないのかもしれない。

 島のウサギは、毒ガスを試すための実験動物に使われていた。それが戦後解放されて、この島で野生化した。負の遺産を次世代に伝え、平和と同胞愛のために尽くすこと―愛くるしいウサギたちはその使命を負って、この島に人々を呼び寄せているように思う。かわいいだけで終わらせないでと、ウサギたちは伝えているように感じた。