昨年7月の参院選広島選挙区を巡る買収事件で、公選法違反罪で起訴され、東京地裁で公判が始まった前法相の衆院議員河井克行被告(57)と妻の参院議員案里被告(46)には、もう一つの重大疑惑が存在する。地元事務所の元秘書らが、割増賃金不払いや一方的な減給、突然の解雇といった不当な処遇を受けていた問題だ。「自殺を考えた」という深刻なケースもあり、労働基準法や労働契約法に違反する疑いが濃厚だが、労働基準監督署は傍観を続ける。「前代未聞の巨額買収事件」に注目が集まる陰で、耳を傾けられることのなかった悲鳴とは―。(共同通信=新冨哲男、平等正裕)

 ▽前法相からののしられ、精神的苦痛に

 夏の蒸し暑さと人いきれの中、立っているだけで汗が噴き出す。ピンク色ののぼりがはためく傍らで、応援に駆け付けた菅義偉官房長官がマイクを手に声を枯らしていた。参院選公示直前の昨年6月下旬、案里議員の街頭演説が盛大に催されていた広島市内の目抜き通り。現場を取材していた私たちは、足早に行き交う有権者に懸命にビラを配っていた女性の姿を目にしていた。

 女性は案里議員が支部長を務めていた自民党広島県参議院選挙区第7支部で、事務員として働いていた。約11カ月後の今年5月。しばらく逡巡した末に私たちと向き合った彼女が打ち明けた話は、悲痛な内容だった。

 「頑張った気持ちを踏みにじられた。記憶から消したい」

 女性は昨年5月に正式採用された。月25万円の報酬や週休2日の約束だったが、間もなく休みは減り始めた。昨年6月末から無休となり、深夜まで帰れない日も。「代議士(克行前法相)が休みを取るなと言っている」。上司からは、朝礼でげきを飛ばされた。体調不良と伝えて1日だけ休んだ以外は働きづめ。少しでも貢献しようと体にむちを打った。

 参院選で案里議員が初当選した直後、事務所での処遇は一変する。「給与を月約20万円に減額する。仕事を続けるか考えてみて」。克行前法相の公設秘書から告げられた。昨年8月初旬ごろの人事面談では克行前法相から「声が小さい」とののしられ「はい」と繰り返し返事をさせられた。「あなたに何ができるの。恥ずかしくて外には出せない」「こんな人いらない」と責められ続けた。

 「もう、無理」。面談終了後、女性は恐怖と悔しさのあまり涙が出た。朝起きても、どうしても事務所に足が向かなくなった。約1週間休職し、そのまま退職。「仕事で訪れた場所に行くと、当時の光景がよみがえる」

 ▽前触れなき解雇、給与激減も

 河井夫妻の関係者への取材を重ねる中で、不当待遇疑惑が判明したのは、女性を含めて少なくとも4人。中には前触れなく、突然解雇された人もいる。克行前法相が支部長を務めていた自民党広島県第3選挙区支部の求人に応募し、昨年5月の正式採用後に克行前法相らの運転手として働いた男性だ。

 男性は民間企業で総合職のキャリアを持ち、無期雇用を念頭に置いた転職だった。採用後、克行前法相は態度を豹変(ひょうへん)させた。呼び方は「おまえ」に。機嫌が悪くなると、男性がハンドルを握る車の後部座席から「バカ」と怒鳴った。運転席を蹴ったり、頭を平手打ちしたりした。男性が買い出ししてきたマヨネーズ風味のおにぎりが気に入らなかった際には、床に放り投げ「食え」と言い放ったこともあった。

 参院選直後の昨年7月下旬、男性が克行前法相を自宅に送り届けた時のことだ。突然「車の停車位置が悪い」と怒鳴られ、その場で「勤務態度が悪い。おまえは今日限りだ」と宣告された。家族を養えるのかと、絶望感が込み上げた。昨年8月分給与に当たる現金は支払われたが、ストレスから体重が激減した。食べ物を口に入れても味がしなくなり「ビルの上から飛び降りたら楽になるかな」との考えが頭を巡った。「人生をめちゃくちゃにされ、悔しかった。次の仕事が見つかるあてもなく、苦しかった。もう思い出したくもない」

 複数の関係者によると、元私設秘書2人は賃金が安定しないことに不安を漏らし、昨年10月末〜12月末に退職した。このうち克行前法相と案里議員の双方に仕えた元私設秘書は、月給40万円とされていたハローワークの求人に応募していたが、給与は昨年7月の手取り約38万円から、昨年8月と昨年9月は約32万円、昨年10月は約25万円と減額された。もう1人の克行前法相の元私設秘書は「月給35万円、所定労働時間外の勤務には割増賃金」と労働条件が明示されていたが、深夜の割増賃金は支払われなかったという。

 ▽雇用のルールに特権なし

 この4人に共通するのは、参院選後に待遇がみるみる悪化し、まるで「使い捨ての選挙の駒」(元運転手の男性)であるかのように事務所を追われた点だ。4人とも特別職の国家公務員として身分が保障され、給与が国費で支給される政策秘書や公設秘書ではない。給与は事務所内で絶対的な権力を握る「国会議員の裁量次第」(秘書経験者)とされる。

 事務所で人を雇う以上は通常の民事関係が成立するわけで、国会議員だからといって雇用のルールを守らなくてもいいという特権は一切ない。厚生労働省や複数の専門家に見解を尋ねたところ、4人のケースにはいくつもの法令違反の疑いが認められた。

 まず4人は全員、選挙期間中などに長時間労働が常態化していたにもかかわらず、深夜勤務の割増賃金が支払われていなかった。労働基準法は深夜勤務などに一定率以上の割増賃金の支払い義務を定めており、違反すれば6月以下の懲役、または30万円以下の罰金。労働基準法は使用者が労働者を雇い入れる際、法定の書面などで業務内容や労働時間、休日などの労働条件を明示しなければならないとも義務付けており、違反すれば30万円以下の罰金だが、2人には労働条件が明示されていなかった。

 さらに、労働契約法は合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合、解雇を無効にすると規定している。職務上の地位や職場内の優位性を背景に精神的、身体的苦痛を与える行為はパワハラに当たり、労働契約法上の安全配慮義務違反とされる。人に手を出すのは、刑法の暴行罪だ。取材で証言を得るたびに、私たちは事実関係を確認する質問状を河井夫妻の国会事務所に送ったが、回答はなかった。

 ▽動かぬ労基署、泣き寝入りも

 「使用者が権力をかさに着て契約を変更しており、あってはならない扱い。働き方改革を先頭に立って支えるべき国会議員による重大な疑惑で、公選法違反事件と同様に問題視されるべきだ」。河井夫妻の地元事務所での労務管理について、労働法に詳しい指宿昭一弁護士は厳しい評価を下す。不当待遇が原因で心身の不調が生じたのであれば、労働災害に当たる可能性もあり、悪質性は高いという。

 法令違反がないか調査し、処分するのは労基署だが、社会的影響力が大きい国会議員を前に実態解明に乗り出す気配は見られない。「相手が政治家だと、難しいところもある」。ある現場の労基署職員は取材にささやいた。元運転手の男性は「労基署に相談しようと考えたが、政治家なので何をされるか分からないと思った」と明かしており、労働者側も報復を恐れて泣き寝入りを余儀なくされているのが実情だ。

 国政選挙での買収行為が、民主主義の根幹を揺るがす重大犯罪であることは疑いない。一方で、生身の人間の人生を脅かすような労働実態もまた、決して看過してはならない問題だ。案里議員の華々しい初当選を下支えした人々が不当待遇に涙し、心に傷を負っている。河井夫妻が使用者としての責任を免れるのは、道理に合わないのではないか。取材を通し、何度も感じた。