スタジオジブリが作品の場面写真の無償提供を始めた。ホームページでは「今月は、新しい作品を中心に8作品、合計400枚提供します。常識の範囲でご自由にお使いください」と告知している。

 関係者には驚きを持って迎えられ、ファンは歓喜しているという。(47NEWS編集部・共同通信編集委員=佐々木央)

 今回公開された8作品は「思い出のマーニー」「かぐや姫の物語」「風立ちぬ」「コクリコ坂から」「借りぐらしのアリエッティ」「崖の上のポニョ」「ゲド戦記」「千と千尋の神隠し」。それぞれ50枚ずつ公開されているので、1枚1枚を見ていくと、ストーリーまでよみがえってくる。

 ジブリはこれまで、作品の引用・使用については非常に厳しかったとされる。それがなぜ大転換したのか。

 9月19日の共同通信配信記事は、ジブリのプロデューサー鈴木敏夫さんの発言を引用し、この疑問に応えている。「作品を見てくれた人に恩返しがしたい」「作品のためにも、(場面写真が)みんなに広く活用されたらいい」という言葉がそれだ。

 だが「恩返し」は分かるとしても、場面写真の無料提供がどうして「作品のために」なるのか。粗雑に扱われたり、作品の価値が下がったりして、作品のためにならないのではないか。

 鈴木さんの真意が知りたくて、それらの発言の引用元であるジブリ発行の月刊誌「熱風」8月号を開き、「ジブリと著作権」と題する座談会の記事を読んだ。

 座談会は前半で、ジブリの顧問弁護士である村瀬拓男(たくお)さんが、著作権について解説する。これがとても分かりやすい。

 後半、いよいよ鈴木さんの思いが明かされる。村瀬さんが代弁するような部分もあるので、村瀬さんの言葉とともに採録する(「…」は省略を示す)。

 村瀬 …今、ほんとに作品って山のように世の中に溢れていて、あっという間に忘れ去られていくじゃないですか…

 鈴木 僕が好きだった作家で言うと、石坂洋次郎がそうですよね。すごい流行作家で、いっぱい書いていた。20年ぐらいそれを続けるんだけれど、亡くなった後、一瞬のうちに忘れ去られちゃって、もう今や彼の本を読むのは難しい状況が生まれているんです。それは辛いよね…

 村瀬 著作物って結局誰かが読んでくれて、誰かが見てくれて、誰かが聞いてくれなかったら、何の意味もないんですよ…これ面白かったよねとか、これ、こうだったよねというふうに話題に上がる。それが一番重要なことなんです…作品のいろいろな利用の仕方に細かい、今の法律上のルールで微妙なところから目くじら立て始めたら、これはかえってそのような作品の命を長らえさせるということに対して逆効果になる危険性がある 。

 鈴木 守っているつもりが逆に邪魔するもんね。だってわれわれが扱った原作で言うと、例えば『火垂るの墓』。作者は野坂昭如でしょ。僕は学生時代からずっと野坂さんのファンだったんだけど、野坂さんの小説を読むって今では大変。だって本が少ない。おまけに著作権の保護期間が長くなっちゃったじゃない。そしたらますます消えちゃうんだもん。

 鈴木さんはほかに、堀田善衛についても「亡くなった後、もうほんとに本がないんだもん、辛いよ。だから著作権って使い方を間違えると、作家の命を潰していくんですよ」と述懐している。

 著作権を声高に主張して目先の利益を求めている間に、作品そのものが消えていく。

 2018年の法改正で、著作権の保護期間が作者の没後50年から70年に延長され、その間は許諾を受けたり、著作権料を支払ったりしなければならなくなった。もし、20代でその作品を書き、80代で亡くなったら、作品の成立から130年間もその作品が有料となる。その間に作品が忘れ去れるとしたら、いったい誰の、何を守っているのか。

 この座談会記事を読んでいて、唐突だが、会津八一(あいづ・やいち)の『一片の石』という文章を思い出した。ウィキペディアによれば、会津は1881年生まれの歌人・美術史家・書家である。『一片の石』は次のように始まる。

 「人間が石にたよるようになって、もうよほど久しいことであるのに、まだ根気よくそれをやっている」

 世にとどめたいと思うものを作るために、城壁も祭壇も神像も殿堂も石で作られた。しかし「石といえども、千年の風霜に暴露されて、平気でいるものではない」。会津はそう喝破する。そして中国の故事を引く。

 西晋の時代の学識者で大官でもあった羊祜(ようこ)が嘆いた。自らの死後、誰も思い出す人とていなくなると思うと、悲しいと。しかし彼が死ぬと、土地の人々は山の上に石碑を建てる。碑を見るものは、遺徳を想ひ出しては涙を流すので「堕涙(だるい)の碑」という名まで付いた。だが、月日が流れて碑は朽ち果て、何度か立てかえられたが、それももはや残っていない。

 ところが、こうした事績を含め、羊祜のことを記した書籍や詩歌は残った。

 また、その人の友人の杜預(とよ、詩聖杜甫の先祖)は、やはり忘れられることを恐れて、自分の一生を二基の石碑に刻み、一つを山の上に、一つを漢江の淵に沈めた。どちらか一方は残るように。それはどうなったか。

 「杜預が企画した石碑は二基ともに亡びて、いまにして行くところを知るよしもないが、彼の著述として、やや得意のものであったらしい『左氏経伝集解』は、今も尚ほ世に行はれて、往々日本の若い学生の手にもそれを見ることがある」

 そうして会津はこう結論を述べる。

 「だから、大昔から、人間の深い期待にもかかわらず、石は案外脆いもので寿命はかえって紙墨にも及ばないから、人間はもつと確かなものに憑(よ)らなければならぬ、と云ふことが出来よう」

 会津八一自身も、出身校の早稲田大学や生地の新潟市に記念館があるほどの人物だが、その名を知る人は少なくなった。しかし、こうして彼の文章を思い起こし、引用することはできる。なぜか。

 会津のこの文章を、私は著作権切れの作品を集めた「青空文庫」で読んだ。彼の没年は1956年。著作権保護期間がまだ50年間だった2006年、彼の作品の保護が満了したおかげで、青空文庫に採録され、出会えたことになる。

 著作権という石に守られ、朽ち果てなかったことを喜びたい。