海底に横たわる巨大な金属板は朽ちて、藻に薄く覆われている。砂をそっと払い、水中ライトで照らすと深緑色の塗装が浮かび上がった。太平洋戦争中、鹿児島県・種子島沖に沈んだ旧日本軍機とみられる機体の主翼部分だ。水深約20メートルの砂地に裏返しに埋もれた姿が2015年、地元ダイバーによって発見された。所属や搭乗員は不明。今年6月、政府が国内で初めて航空機の引き揚げを伴う遺骨調査に取り組むと知り、現地に向かった。(共同通信=金子卓渡)

 ▽九七艦攻の眠る海

 国を本格調査に向かわせたのは「古里に帰してあげたい一心で」という思いから始まった約20年に及ぶダイバーたちの取り組みだった。

 種子島のダイビングショップオーナーの林哲郎さん(74)は50歳を過ぎて脱サラ。店を構えて間もなかった1999年ごろ、海に沈む旧日本軍機のうわさを地元漁師から聞いた。現場は島北部の喜鹿崎沖という曖昧な情報だけ。流れが激しくダイバーを寄せ付けない場所だった。観光ダイビングのガイドをしながらスタッフたちと時間をつくり、広い海を探った。

 探し始めてから約15年。ついに砂に埋もれたタイヤを見つけた。「初めはゼロ戦かと思ったが、もっと大きかった」。機体の周りを手で掘ると、旧日本海軍の「九七式艦上攻撃機」(九七艦攻)とみられることが分かった。真珠湾攻撃や、大戦末期は沖縄方面への特攻作戦にも使われた主力機だ。

 大隅海峡を挟み約70キロ北方、鹿児島県鹿屋市にあった串良基地から出撃し不時着した機体ではないか、と林さんはみている。戦時中、種子島には軍の飛行場が造られ、前線への中継基地に。特攻機が緊急着陸することもあったという。

 ▽私の肩につかまって

 林さんはなぜ約20年もの間、執念深く搭乗者の手がかりを探し続けてきたのか。多くの艦船や民間徴用船が米軍の空爆で沈められた中部太平洋の島で潜った体験が大きい。

 「パラオやトラック(現ミクロネシア連邦チューク諸島)で沈んだ船に残された多くの遺骨を見た。帰してあげたいけど、触れることもできない。私の肩につかまってくださいと祈って海から上がったよ」と振り返る。

 海に沈んだ旧日本軍機の話を漁師から聞いたとき、遺骨探しは自分がやるべきだと思い立ったという。

 有志の手作業には限界があった。機体の引き揚げを伴う調査は「日本戦没者遺骨収集推進協会」が主導し、林さんと店のスタッフも水中作業に加わることになった。

 「もし(遺骨が)見つからなくても、直前まで持っていた物を遺族に届けることができれば」。調査に懸ける思いが言葉ににじんだ。

 ▽祈りを込めて潜る

 筆者は、鹿児島県西之表市の委託で、国の調査前に現場の保存状態を記録する林さんたちに同行させてもらった。

 6月10日、九七艦攻が眠る喜志鹿崎沖約300メートルの現場に船で向かった。東シナ海の海流と太平洋の黒潮がぶつかり、潮流が複雑で激しい海域だ。白波が立ち、浮き沈みする海面のブイを頼りに、船長らが潮流の弱まるわずかな時を見極める。

 船上で待機すること約1時間。ブイの動きが鈍くなった。「慰霊の気持ちを持って潜って」という林さんの言葉を思い出し、心の中で手を合わせて海に飛び込む。

 水深約20メートルまで潜行すると、裏返った主翼の輪郭が徐々に姿を現した。エンジンは失われ、残った部分は長さ8・8メートル、幅7・3メートル。事前に確認した写真の印象より大きいが、胴体の幅は狭い。

 爆弾や魚雷を装着するU字形の部品が見えた。深く埋もれた機体の真下にコックピットがあるはずだ。周辺に遺骨があるのだろうか。その人を思うと動悸(どうき)がして呼吸が速まった。20代後半の自分よりずっと若かったかもしれない。最期に何を思ったのか、どれほどの恐怖だったのだろうか。大破した機体が生々しく迫り、思わず空気を吸うためのレギュレーターを強くかんだ。

 気持ちを落ち着けようとカメラの操作に集中する。主翼にかぶった砂を手で払い、ライトを当てると、深緑色の塗装が浮かんだ。旧日本軍機の色だ。戦闘の現場で時が止まったように思えた。

 「古里に帰れますように」と祈り、浮上した。

 ▽困難な作業

 国による水中での本格調査は、金属探知機で不発弾が無いと確認した後、6月19日に開始。激しい潮流や天候不良で調査は難航し、エアーコンプレッサーで機体周りの砂を除去する作業が続いた。林さんたちは水中で操縦席の周りを調べ、機材で吸い上げた砂はDNA鑑定人を含めた協会の調査団が丁寧に確認した。

 島の人たちと展望台から遠巻きに作業船を見守る。種子島での戦争について聞いてみたが、「70年以上も前のことだから」「島を出る人も、移住者も多いからね」と、当時を知る人には出会えなかった。

 ▽見つかったのは

 「コーッ、コーッ…」。水中電話から海底で作業する潜水士の呼吸音が反響し、海はどこか厳かな雰囲気だった。機体の引き揚げを試みると聞いた6月23日、再び船で現場に近づくと、クレーンのワイヤが動き、ゆっくりと棒状の部品が海面に上がってきた。

 台船の上には黒い塊が置かれていた。高波にあおられながら望遠レンズをのぞくと、特徴的な丸穴の部品や、フットペダルが目に留まった。

 コックピットだ―。つぶれて黒く朽ち果て、原形をとどめないそれは、機体が受けた衝撃を物語っていた。

 翌日には、残った主翼と胴体が引き揚げられたが、遺骨は見つからなかった。操縦席の近くから鉛筆と工具の一部が見つかったものの、搭乗員の身元特定にも至らなかった。

 「操縦席は焼けたように黒かった。エンジントラブルで爆発したのかもしれない。見つけてあげることができなかったが、調査が今後の遺骨収集につながり、遺族にとって朗報になれば」。林さんは、いまだ古里に帰れぬ戦没者に思いをはせた。

 ▽「海没遺骨」

 厚生労働省によると沖縄や硫黄島を含む本土以外の戦没者概数は240万人。いまも未収容の遺骨112万柱のうち、海で亡くなった人の遺骨は30万柱に上るという。

 深海に沈んだ船も多く、費用や安全面から、海の戦没者は原則、海上から慰霊する対象だった。

 しかし近年、水中の遺骨の画像が興味本位にインターネット上で公開されるなど、戦没者の尊厳の侵害が問題化。一方で海中の遺骨は保存状態が良く、DNA鑑定で身元が特定できる可能性もある。2020年、国は可能な場合は引き揚げる方針を明らかにした。

 水中考古学者の山船晃太郎氏は「海の遺骨は静かに眠らせてという意見もあるが、いわば放置され忘れられたお墓のような状態。海外では勝手に荒らされ、物を取られることもある。しっかりと認知し供養できるようにする必要がある」と話す。

 ▽取材を終えて

 機体の一部が引き揚げられた6月23日。戦没者を追悼する「慰霊の日」を迎えた隣の沖縄県では、米軍基地移設の埋め立てに沖縄戦の犠牲者の遺骨がまざる土砂が使われる懸念を巡り、抗議のハンストが続いていた。政府は「戦没者遺骨収集推進法」で遺骨の調査・収集は「国の責務」と定めた。遺骨がまざる恐れがある激戦地の土砂で基地用地の埋め立てを進めるならば、説明がつかない。

 後日、林さんに電話をかけると、報道で調査を知った全国の人から、はがきや電話で応援やお礼の声が届いたという。調査で搭乗員の身元特定につながらず、疲れた様子が心配だったので、少しほっとした。同時に、その反響から今も遺骨の帰りを待ち望む大勢の遺族を思った。