太平洋戦争末期の沖縄県では「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の激しい攻撃を受け、県民の4人に1人が犠牲となった。旧日本軍の組織的戦闘は1945年6月23日に終結したとされる。それから77年余り。悲惨な記憶を語れる人が年々減る中、平和への思いをどう受け継いでいくか。沖縄戦を生き抜いた男性が当時歩いた道のりを、戦争体験者の聞き取りを続ける大学院生と共に、那覇市出身の私もたどった。(共同通信=兼次亜衣子)

 ▽約400人が身を隠したガマ
 梅雨の蒸し暑さが漂う5月下旬。沖縄県浦添市牧港にある「チヂフチャーガマ(自然壕)」を、近くの宜野湾市嘉数に住む元教員の伊波義雄さん(84)、沖縄国際大大学院2年の石川勇人さん(24)と訪れた。
 このガマには、1945年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸する前、戦禍を逃れようと嘉数地区の住民が避難した。母を早くに亡くした当時6歳の伊波さんも、父と兄弟、もうすぐ2歳になろうとしていた妹のミヨ子さんと身を寄せていた。
 横長の入り口から身をかがめてガマの中に入ると、思いの外ひんやりとした空気が流れていた。奥には全長150メートル、高さ4・5メートルの巨大な空間が広がる。ヘルメット姿の伊波さんが「多い時には400人がいたんです」と解説してくれた。

 外の雨が流れ込んでいるのか、ザーッという水音が響く。真っ暗な中、ペンライトを頼りに奥に進むと、足元に陶器のかけらが見つかった。石川さんが「(戦争)当時のものですよね」とつぶやいた。2年前にも、伊波さんとこのガマに入ったという。
 1945年4月、伊波さんは小学校に入学するはずだった。ガマの中は「集落の人もみんないて、楽しい感じ。米軍が弾を打つ音も聞こえたが、怖いと思わなかった」と振り返る伊波さん。4月1日からは、入学式で着る予定だった制服を身に着けて過ごしたという。
 米軍の攻撃が激化し、日本兵に「住民は(沖縄本島)南部に避難して」と告げられたのは翌2日。伊波さん一家はその4日後、親戚と一緒にガマを出た。残ったのは、体が不自由な人やお年寄りら、移動が難しい約30人だけだった。
 77年前のつらい記憶がよぎったのか、伊波さんから「もういいでしょう」と促され、30分ほどでガマを後にした。外の明るさにほっとする。車に乗り込んだ時、伊波さんはふいに「本当はここにはあまり来たくなかった」と漏らした。

 伊波さんたちが沖縄本島南部に向かった後、米軍は毒ガスを噴射。ガマに残っていた多くの住民が犠牲になった。「僕らが出発する時、みんな入り口まで出て『元気で』と見送ってくれてね。忘れられない」

 ▽首がない赤ちゃんを抱く母親
 伊波さん一家と親戚は米軍の艦砲射撃を避け、昼は木陰などに隠れた。夜になると、使われていない線路沿いを歩き、南を目指したという。
 当時の光景を想像しながら、一家の避難ルートを車でたどった。浦添市から那覇市に入り、さらに豊見城市へ渡る真玉橋で車を降りた。

 沖縄本島南部へ向かう住民と日本軍が交差したここは、米軍の激しい機銃掃射に遭った場所だ。あの日、伊波さんが目の当たりにしたのは、道を覆い尽くすほどたくさんの遺体だった。「兵隊も住民も、歩けないくらい遺体があった。首がない赤ちゃんをだっこしたままの母親もいたけど、誰も声をかけない。自分の命を守るのでみんな必死だったんですね」

 横たわる遺体を踏みながら歩いたという伊波さん。「怖さも何もなく、どうしたらこうならないか考えていた。あんな残酷なことを僕は…。戦争は、人間が人間でなくなる」。ロシアの侵攻が続くウクライナでも同じ光景が広がっていると思うと、心が揺さぶられると話す。
 石川さんは「(伊波さんの)体験は何度も聞いていたけれど、実際に現場に立ち『この場所なんだ』と実感した」と語る。真玉橋周辺は今、巨大な交差点となり多くの車が行き来する。豊見城市へ渡る橋を3人でゆっくりと渡った。「あの時からは想像できない。平和のありがたさを今、かみしめています」。そうつぶやく伊波さんに、石川さんがそっと寄り添った。

 ▽小さな妹の最期の場所へ
 伊波さんの記憶をたどり、真玉橋から南に約10キロの糸満市国吉へ。伊波さん一家が最後に身を隠した壕を目指した。
 あの時、国吉にたどり着くまでに爆弾で親戚が亡くなり、伊波さんもやけどを負った。入学式で着るはずだった制服は、ぼろぼろになっていた。
 そしてここは、伊波さんにとって、幼い妹ミヨ子さんとの記憶が残る最後の場所でもある。

 1945年6月18日、壕の中でミヨ子さんが泣き出し、敵に見つかるのを恐れた日本兵が殺そうとした。「家族一緒に殺してくれ」と父が頼み、入り口に並んで座らされた。日本兵が刀を振りかざした瞬間、別の兵隊が「米兵がすぐ近くにいる」と飛び込んできて、難を逃れたという。翌19日午前、米軍の毒ガス攻撃を受け、外に出たところで一家は捕虜になった。倒れたミヨ子さんはその後、死亡が確認された。
 入り組んだ路地に住宅が並び立つ昔ながらの集落に今、77年前の面影はない。草いきれが立ちこめる空き地の一角に、月桃の葉が生い茂っていた。「ここが壕の入り口のはずだ」。指さす先は草木が阻み、奥に何があるかはうかがえない。
 最後に身を隠した場所は長年分からなかったが、伊波さんは記憶を頼りに昨年、放送局の記者と歩き回り「ここに壕があった」とする地元住民の証言を得たという。ただ、入り口が埋められていたため中は確認はできていない。さらなる確証を得ようと、伊波さんは周辺で聞き込みを始めた。
 近くを通った男性(87)が足を止めてくれた。「そこに壕があった。入り口は3カ所」。伊波さんの記憶とぴったり重なった。

 伊波さんは「ここで間違いない」と口にし、おもむろに手を合わせた。「ミヨに経過を報告していた」と後で教えてくれた。家族みんなでかわいがった小さな妹。「77年たっても亡くなった場所も分からんで、かわいそうだった。これで供養してあげられる」
 苛烈な地上戦で焦土と化した沖縄では、どこで最期を遂げたか今も分からない人が大勢いる。
 戦後、ミヨ子さんのことを父は語らず、伊波さんはずっと気にかけていたという。「また一緒に来ましょう」。石川さんの言葉に何度もうなずいていた。

 ▽戦争と地続きの今、私たちにできることは
 伊波さんは教員を退職後、地元で平和ガイドとして活動し、沖縄戦の歴史を伝えている。当初は真玉橋の光景を思い出し、眠れなくなったこともあった。「今は大丈夫」と語るが、石川さんは「悲しい体験と距離を取っているだけで、決してつらくないわけではない」と気遣った。
 身を削る思いで語り続けるのはなぜか。「二度とあんな戦争を起こしてはいけない。戦争を起こすのも人間なら、やめることができるのも人間なんですよ」。伊波さんの答えは揺るがない。

 戦時の聞き取りを続ける石川さんは「体験者の話を通じて、沖縄戦を知っていった」と語る。「僕らは体験を直接聞ける最後の世代。自分たちなりに受け止め、伝えていきたい」と誓う石川さんを、伊波さんが「頼りになる後輩だ」と笑った。
 沖縄では6月23日が「慰霊の日」と定められている。学校や官公庁は休日となり、各地で追悼行事が開かれ、島全体が平和への祈りに包まれる。
 私は子どもの頃、6月が嫌いだった。通っていた那覇市の小学校では、慰霊の日が近づくと、沖縄戦の凄惨な写真が掲示された。祖父母の戦争体験を聞く宿題もあったが「もう思い出したくない」と言われ、提出できなかった。
 今回、伊波さんらとたどったルートには、那覇市内の私の実家近くもあった。友人と歩いた中高の通学路、幹線道路沿いに走るモノレール、母が毎日のように通うスーパー。見慣れた街は77年前、住民の避難経路となり、日米両軍が激戦を繰り広げた。惨禍の記憶は、地続きで今とつながる。故郷を再び戦場にしないためにできることは何か―。伊波さんや石川さんらと模索し続けたい。