投打で甲子園大会を沸かせ、遊撃手としてドラフト1位で入団したプロ野球中日の根尾昂が、シーズン中にピッチャーへ異例の転向を果たし、注目を集めている。プロ入り後に野手から投手に転向することには、批判や懐疑的な声も上がっているが、20年ほど前にも同じような道を歩んだ選手がいる。
 野手でオリックスに入団しながら、未経験だった投手に転身した萩原淳さん(48)。270試合に登板し、13勝15敗15セーブ、20ホールド、防御率4・91という成績を残し、プロ野球選手として19年過ごした。萩原さんに、その型破りな挑戦を振り返ってもらった。(共同通信=寺内俊樹)

 ▽思いも寄らない提案に「冗談だと思った」

 萩原さんは1992年、ドラフト2位でオリックスに入った。山梨・東海大甲府高では選抜大会に2年連続出場。強打の内野手として期待されたが、入団直後、周囲との力の差にがくぜんとした。「絶対無理。僕なんかが通用する世界じゃない」とレベルの違いを痛感したという。
 同期はドラフト1位に田口壮、4位には鈴木一朗(イチロー)がいた。いずれも後に大リーグで活躍する名手だ。
 プロ入り後の9年間で出場7試合にとどまり、わずか1安打。活躍するイメージは持てなかった。2000年6月、新井宏昌2軍監督に呼ばれた。「戦力外通告」も覚悟したが、思いも寄らない提案をされた。
 「投手をやってみないか」
 高校入学時には遠投110メートルを誇り、強肩に自信はあったものの、本格的な投手経験はない。「冗談だと思った」がやるしかなかった。
 

 野手練習を終えた後、投球練習を始める毎日が始まった。思った以上に難しい。内野守備から眺めている時は「短い距離ならストライクが入るだろう」と思っていたが、いざマウンドに上がると勘所がつかめない。思い切り投げようとすると、体の節々に力が入ってしまう。
 それでも、連日150〜200球を投げ込み、体に覚えさせた。幸いにも投げることは好きだった。ただ、そんな萩原さんに対する周囲の目は厳しい。当時は茶髪でロン毛という見た目だったせいもある。今更ピッチャーを始めることに懐疑的な人も多かったが、負けじと練習に打ち込んだ。

 ▽場数を踏んで、覚悟ができた

 内野手時代から、キャッチボールでスライダーやカーブといった変化球を遊びで投げてはいたが、決め球となるようなボールはない。そこで通算89勝を挙げた野田浩司からフォークボールを教わり、投手コーチの佐藤義則からは投手のノウハウを教わった。
 翌2001年からは投手に専念した。野手で芽が出ず、いつ「戦力外」になってもおかしくなかった。それが「投手のチャンスをもらえて、もう1年できるようになった」。
 野手から投手になった選手は当時、ほかにもいた。オリックスでは高校時代に投打で評価された嘉勢敏弘、今村文昭が同時期に投手に転向したが、「2人は経験者。勝つには練習量しかない」と闘争心に火が付いた。
 萩原さんが追求したのは「いかに打者から見にくく、球持ちを良くするか」。ピッチャーでない選手が投げる、いわゆる「野手投げ」だと、球速が150キロ近くても球の出所が見えやすく、簡単に打ち返されるためだ。1軍で初登板した後も自信は芽生えなかったが、場数を踏んで「投手でやってやろう」と覚悟ができた。
 その後は日本ハム、ヤクルトでもプレーし、通算270試合に登板。「投手じゃなかったらとっくに首になっていた」と思い返す。それでも、19年ものプロ野球人生を可能にした転向劇については「成功ではない」と言い切る。
 「もっとできたと思う部分があるし、もっとやりたかった」。生来の負けず嫌いと飽くなき向上心が“ピッチャー萩原”に合格点を与えない。

 ▽根尾は「はるかにポテンシャルが高い」

 

 ただ、唯一無二のキャリアプランを描いてくれた仰木彬監督ら、当時の首脳陣に感謝は尽きない。「プロのマウンドに立つなんて想像もしていなかった。マウンドではしょっちゅう『なんでここに立っているんだろう』と思っていた」としみじみと語った。 

 引退後は独立リーグで野手、投手コーチを歴任し、現在は日本海オセアンリーグの富山で投手コーチを務める。野手の投手転向を指導者目線で考えることもあるが「肩が強い野手でも、マウンドで投げさせたら違う。ストライクが入らなかったり、見やすかったり、思ったより速く感じない」と話す。実体験に基づくだけに説得力がある。
 しかし、中日の根尾昂のチャレンジは肯定的に捉えている。「僕よりはるかにポテンシャルが高い。比べようがない」。ポジションを問わず、明るい未来があるという。「あんなすごい選手にアドバイスなんかできない」と控えめながら「もっと経験すれば、いろんなことを吸収して、できると思う。転向したからには頑張ってほしい」と自らはなしえなかった“成功”の夢を託した。