イラクで10月10日、3年ぶりに国会の総選挙が行われた。2年前の大規模デモでの市民らの要求に沿い、1年前倒しで行われたが、投票率はイラク戦争でサダム・フセイン独裁政権が崩壊してから最低の43%に沈んだ。勝利したのは反米強硬のイスラム教シーア派指導者サドル師が率いる政治組織だった。フセイン独裁政権下で民主主義を熱望した多くの人々がなぜ棄権したのか。有権者は1票に何を託したのか。首都バグダッドで市民に尋ね、イラク民主化の現状を追った。(共同通信=日出間翔平)

 ▽厳戒態勢の投票所

 民主的な取り組みを否定する過激派組織「イスラム国」(IS)が事前に投票の妨害を呼び掛け、全国に計25万人以上の治安部隊を配置する厳戒態勢が敷かれた。当局は投票日の前日から空港や国境を閉鎖し、州をまたいだ移動を規制。選挙に合わせて休日となった月曜日朝のバグダッドは車や人通りがまばらで、静かだった。

 有権者は18歳以上の約2500万人。有刺鉄線に覆われ、銃を持った兵士が居並ぶ投票所では、受験生アリ・ファラハさん(18)が「落ち着いた教育環境のために治安が良くなってほしい」と話した。政府発表の失業率(5月時点)は13・8%だが、イマド・アブドルマジドさん(57)は「その数字は偽り。腐敗した政治家はもうたくさんだ」と、既存政党ではなく独立系の候補に投票した。スペイン語通訳の仕事がなくなり、もう長く無職だという。

 ▽ボイコット呼び掛け

 今回の選挙は2019年にアブドルマハディ政権を退陣に追い込んだ大規模デモを受け、新たな選挙法の下で実施された。従来の比例代表制から選挙区制に移行。政党に所属していない候補にも当選の道を開いた。だが、デモ隊の一部は改革が「不十分」だとしてボイコットを呼び掛け、投票率は伸び悩んだ。

 国会の定数は329議席。選挙管理委員会が発表した暫定の開票結果によると、サドル師派が前回より議席増となる70議席以上を獲得。40議席程度を得たスンニ派のハルブシ国会議長が率いる世俗派の政党連合、シーア派のマリキ元首相の「法治国家連合」が続いた。

 選挙対策のため、政党は1人の候補に1億円相当をつぎ込むこともあるといわれる。北部クルド人自治区アルビルの選挙区から無所属で立候補し、落選した機械エンジニアの男性(52)は「政党の支援を受けずに十分な選挙運動をするのは資金面で厳しく、有権者の信用を得るのも簡単ではない」と振り返った。

 ▽政治家は「泥棒」

 イラクでは03年4月、20年以上にわたり国民を抑圧したフセイン独裁政権が米軍の進攻であっけなく崩壊した。新たな憲法下で05年12月に初めて行われた総選挙の投票率は70%だった。アキール・ハサンさん(41)は当時、投票所で「感動の涙が止まらなかった」という。仲間たちと、民主国家をつくっていこうと誓い合った。

 だがその後、過激派のテロが頻発し、シーア派とスンニ派の対立が深刻化した。内戦状態に陥った国は、理想とは裏腹にすさんだ。経済は上向かず汚職が横行。それでも総選挙のたび勝利するのは多数派を占めるシーア派の宗教政党だった。選挙後は毎回、政治ポストを巡り紛糾し、14年には連立交渉が長引くさなかにISが第2の都市モスルを電撃制圧した。

 アキールさんは選挙で投票するのをやめてしまった。靴店で日雇いの仕事をして6人の子どもを育てている。暮らしは少しでも良くしたい。でも「私利をむさぼるだけの泥棒(政治家)に何を望めばいいのか」。投票は政治家に正統性を与えることになるだけだと考えるようになった。

 ▽棄権で意思表示

 国は豊富な石油資源を生かせず、経済苦境から抜け出せない。有権者に「選挙に何を望むか」と尋ねた時、「チェンジ」という言葉が最も多く返ってきた。投票しなかった人も同じだった。国や自身の将来に無関心なのではない。意思表示の方法として棄権を選び、政争に終始する“民主政治”への不信を示そうとしたことが伝わってくる。

 「あれもうそ、この主張もうそ」。路上に林立する立候補者のポスターを指さしながら、元公務員のムハンマド・アルカファジさん(72)がまくしたてた。1カ月3万円の年金暮らし。利権に固執する政治家を見切り、今回初めて投票に行かなかった。「選挙に出るのはいつも同じ顔ぶれ。心底失望している」

 投票率が低迷すればするほど、固い支持基盤を持つ既存政党に有利に働く。そして何より選挙を否定すれば、長く待ち望み、育もうとしてきた民主主義制度そのものを揺るがしてしまうのではないか。アルカファジさんに問うと「民主主義? この国にはとっくにないよ」と言い捨てた。

 ▽テロの脅威、今も

 第1勢力を獲得したサドル師は、シーア派最高位聖職者「大アヤトラ」だった父を持つ名門家出身。イラク戦争後、民兵組織を率いて米軍と戦った反米意識の象徴的存在だ。労働者階級が支持基盤。機械工アッバス・アリさん(27)は「市民のために立つリーダーだ」と語る。選挙に立候補せず「キングメーカー」(米メディア)として、首相選出や新政権発足に向けた連立交渉の主導権を握る。

 イラクではISとの戦闘で駐留してきた部隊の任務終了が今年12月に迫る。米軍はイラク軍への訓練や助言のため、現在駐留する約2500人の規模を維持する方針だが、反米色の強い政権が誕生すれば、完全撤退を求める声が高まる可能性もある。

 選挙戦で争点となった治安は確かに改善している。バグダッドの商業施設で16年7月に250人以上が死亡したISの爆弾テロ現場は修復され、家族連れが行き交う。ただテロは「一瞬で全てが吹き飛ぶ恐怖」(目撃者の男性)を市民に植え付けた。

 警察官だった父をISに殺害されたハディ・シェマアさん(28)は「過激派の脅威は去っていない」。選挙が再び国の混乱や分断につながらないことを願う。ゆっくりと流れるチグリス川のほとりで、そう話した。