この2週間ほど、テレビやネットのニュースに「東京警察病院」がたびたび登場した。数日前の容疑者逮捕で報道は終息したようだが、窃盗容疑での逮捕時に怪我を負いそのまま入院患者となった男が警察官の隙を突いて逃走した事件。容疑者が1週間あまり逃げ回ったことで、警察病院の知名度は不名誉な形で上がってしまったのではないだろうか。

一応書き添えておくと、全国各地にある警察病院は運営母体こそ警察の外郭団体だが、病院自体は警察組織には含まれない民間病院。いわゆる公的医療機関でもない。同じく省庁の職域病院である逓信病院や自衛隊病院が昭和末期や平成に入ってから一般向けの総合病院として開放されたことに比べると、一般病院としての東京警察病院の歴史は長い。一般開放されたのは戦後間もない1945年だった。

そしてこの病院は日本の形成外科と美容外科の歴史を語るうえで欠かすことのできない存在でもある。

ニッポンからやってきたスカウトマン

以前もこのコラムで書いた通り、僕は1956年、米軍病院での1年間のインターンを終え外科修業のため渡米した。

ニューヨーク州立大学オルバニー校の大学病院でのレジデント生活も8年目を迎えようというある日、日本からひとりの来訪者を迎えた。オルバニーという町は今も昔もニューヨーク州の州都、つまり州政府の置かれた自治体ではあるが、マンハッタンを東京の都心部にたとえるならオルバニーは新潟市ほど離れている。当時日本ではまだ一般市民の海外渡航が自由化されていなかったためオルバニーを訪れる日本人旅行者といえば官僚ぐらいだった。

そんな田舎町にわざわざやってきたのは、当時東京警察病院の形成外科部長を務めていた大森清一先生。僕の形成外科の師匠であり形成外科手術の名手として名高かったW・ブランドン・マカンバー教授を訪ねてきたのかと思いきや、先生は用があるのは新米形成外科医の僕の方だという。「君をスカウトするためにはるばる日本からやって来たのだ」と先生は言った。

日本の形成外科の生みの「親分」

大森先生とは特別な師弟関係があったわけではなかったが、僕は医学生時代、皮膚科実習の担当講師として教わったことがあった。言葉遣いはやや乱暴だったが話は面白く、東大医学部らしからぬというよりは表社会らしからぬ、どこかの親分のようなキャラクターで学生に人気があった。

8年以上ぶりに再会した先生は、以前と変わらないべらんめえ口調でスカウト理由を語ってくれた。僕が渡米して間もなく東大の整形外科の中に形成外科診療班なるチームが発足したこと、それからほどなく日本形成外科学会が設立されたこと、どちらも整形外科や皮膚科、耳鼻科などの医師たちから成る混成部隊だということ、東大だけでなく医学界全体として形成外科に対する偏見や警戒心が強いこともあり東大では形成外科講座を開設できず苦労していること、そんな状況を打破するために本場アメリカで経験を積んでいる僕に参加してほしいこと、などなど。

僕は当時、いずれにしても翌年にはビザ更新のためしばらく帰国しなければならないという事情を抱えてもいたが、結局のところ大森先生の興味深い誘いと若干の脅しに背中を押される形で一時帰国プランを調整した。

主戦場は東大病院...ではなく東京警察病院

その翌年、東京オリンピック開催の直前、8年ぶりに帰国して東大に戻った僕には山のような仕事が待っていた。当時は東大を含め形成外科の診療を行っていた病院は数えるほど。形成外科を専門とする医師は全国でも10数人しかいなかった。東大病院の形成外科はまだ外来診療しかできなかったが、手術予約は3年先までぎっしり詰まっていた。大森先生の取り計らいにより患者はすべて当時飯田橋にあった警察病院に入院させ、東大形成外科チームが出向いて手術を行う毎日。4人目のチームメンバーとして加わった僕のアメリカ「帰国」計画は逃げ水のように遠のいていった。

僕が日本に戻って2年半後の1967年、大森先生はほんの1ヶ月ほど東大で初代となる形成外科教授を務めたが直後に東京警察病院の副院長に就任。その6年後には院長になり、そのさらに6年後には名誉院長として前線から退いた。現役当時の先生は病院内外で数々の武勇伝を残し、僕が居合わせた場も多かったが、ひと言で表現するなら先生は古き良き昭和の時代の「親分」だった。

そして診療現場での先生は「ムンテラ」の名人でもあった。

(後編に続く)

[執筆/編集長 塩谷信幸 北里大学名誉教授、DAA(アンチエイジング医師団)代表]

医師・専門家が監修「Aging Style」