■ナガサキノート:この場所で

 夏空の下、今年も長崎市松山町の長崎ビッグNスタジアム(県営野球場)は高校野球長崎大会で沸いた。爆心地から約400メートル。球児たちの汗と涙が染み込むこの土の上には、1945年8月9日まで人々の暮らしがあった。

 「新しい家族が移り住む、新築の家が多い町でした」。この場所に家があった下平作江さん(82)は振り返る。当時の町名は「駒場町」。皆が子どもたちの遊戯会を心待ちにする、和気あいあいとした町だった。

 長崎原爆戦災誌によると、原爆で駒場町の建物はほとんどが全焼。町内で唯一即死を免れた女性も、3日後に息絶えた。

■雑草一つない焼け野原に遺体

 あの日、油木町の防空壕(ごう)で被爆した下平さんが駒場町へ戻ると、雑草一つない焼け野原に遺体が転がっていた。泣きながら探し当てた自宅の場所で、姉の遺体を見つけた。

 当時の町の面影はないが、今も近くを通ると頭を下げる。「足元にお骨があるような気がして」という。「戦争がなかったら球場もここになかったはず。今多くの人が生きる力をもらっているのなら、亡くなった人たちもうれしく思ってくれると思います」

 県スポーツ史によると、終戦から数年の間、「全国で最も運動施設がないのが長崎県」とスポーツ関係者から不満の声があがった。51年、世界平和と文化交流のためにと整備が進められた平和公園の敷地内に、市営大橋球場が完成。その後、周辺に陸上競技場などが建てられた。64年、駒場町は松山町に編入され、地図から名前が消えた。

 大橋球場では、完成直後から高校野球の大会が開催された。戦後の厳しい生活のなか、少年が青春を感じられる貴重な場所だった。

■戦争のつらさ忘れられた

 長崎西高OBで東京都に住む田栗静行さん(77)は原爆で父と妹を失った。戦後、母は必死で働き、ほとんど家にいなかった。寂しくて、「休日も練習がある」野球部に入部。家族のようになった仲間たちとは、球場で、勝つ喜びも、負ける悔しさも分かち合った。板張りのスタンドからは、学校の友人たちが声を張り上げ応援してくれた。「うれしいのも悲しいのも大橋球場だった。全てが凝縮された聖地」。ここで野球に打ち込む間だけは戦争のつらかったことを全て忘れられた。

 97年、老朽化していた大橋球場は改築され、ビッグNに生まれ変わった。