57年前に静岡県で起きた「袴田事件」が、東京高裁の決定で再審への門が開かれた。同様に「冤罪(えんざい)だ」と再審開始を求める男性が埼玉県内にいる。60年前の「狭山事件」で罪に問われた石川一雄(かずお)さん(84)だ。

 一雄さんと妻の早智子さん(76)は13日午後、狭山市の自宅でテレビに釘づけになっていた。東京高裁の決定が速報として出ると2人は歓声を上げ、「次はうちの番だね」と喜び合ったという。「袴田さんの家族とは長い間ともに戦い、交流してきた。うれしかった」と早智子さんは言う。

 一雄さんは、多くの死刑囚がいる東京拘置所で6年近く、袴田事件の元被告、袴田巌(いわお)さん(87)と一緒の時期があった。「イワちゃん」「カズちゃん」と呼び合っていた。元プロボクサーの袴田さんがコンクリートの壁に拳を何度も打ちつけていたのを覚えている。

 「手から血が出ているのに『社会に出た時に備えて体を鍛えておかないと』とイワちゃんは言っていた。隣の部屋の扉がガチャと開く音がするだけで振り向き、死刑を執行されないかびくびくしていた。何もなく朝を迎えると『おはよう』と握手してくるが、力が強いから痛くて痛くて」

 そう話す一雄さんは、袴田さんが釈放された2014年、浜松市にある自宅を「足利事件」の菅家利和さん(76)らと訪れた。菅家さんは33年前に栃木県足利市で女児が殺害された事件で無期懲役が確定後、再審で無罪となった人物だ。

 袴田さんは長い拘禁生活の影響で精神を病んでいたからか、一雄さんを見て「ああ、お父さんか」と言った。一雄さんは東京拘置所の部屋に両親の写真を飾っていたため、その父と勘違いしたのだ。「40年ぶりの再会だったが、その間の時間を失ってしまったのだろう。せつなかった」

 一雄さんは最近、ウォーキングを再開した。週に2日、午後5時から5時間歩く。距離が4万歩に達する日もある。夜歩くのは1人静かに歩きたいからだ。コロナ禍では1日500回の腕立て伏せに切り替えていた。「彼は『冤罪を晴らすまでは絶対に生きる』と公言している。健康を維持して生き抜くのが彼にとっての戦い。食事も制限し、生きることへの執念が違う」と早智子さんは話す。

 ただ、体力の衰えは否めない。以前はジョギングが日課だった。「昔はテレビ局の密取材で『速すぎてカメラに納まらないので、ゆっくり走ってください』と頼まれるほど。いまはウォーキングしかできない。途中で倒れないかと心配ばかりしている」。早智子さんは、そうも言った。

 近ごろは、耳に加えて目の衰えも進む。夫婦は15日、近くの公民館で支援者向けのビデオメッセージを撮った。一雄さんは用意した文字が読めず、紙を見ずにしゃべった。

 保護観察中で、自宅に定期的に来る保護司や保護観察官に近況を伝える暮らしが30年近く続く。選挙権もない。「見えない手錠がかかったまま。イワちゃんには先に行かれた」と一雄さんは笑いながら言った。(岡本進)

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 〈狭山事件〉埼玉県狭山市で1963年5月、女子高校生(当時16)が行方不明になり、脅迫状が自宅に届いた。翌日、身代金の受け渡し場所に現れた犯人を警察が取り逃がし、2日後に生徒が遺体で発見された。県警は同月、被差別部落出身の石川一雄さん(同24)を脅迫状を書いたとして恐喝未遂などの容疑で逮捕し、殺人容疑などで再逮捕した。石川さんは取り調べで関与を認め、一審で64年3月に死刑判決を受けた。

 ただ、控訴審は無実を主張。石川さんの言い分は「自分の兄が犯人と思いかばおうとした」「警察官に『自供すれば10年で必ず出してやる』と言われて自供した」というものだ。しかし、東京高裁の74年10月の判断は無期懲役。上告も棄却され、刑が確定した。

 再審請求は1次は80年、2次は99年に棄却された。石川さんは94年12月に仮釈放され、2006年に3次請求。弁護側は、石川さん宅から見つかった被害者の物とされた万年筆が「被害者の物ではない」という証拠を新たに裁判所に提出した。「万年筆は2度の捜索では見つからず、3回目の捜索時に出てきた。発見の仕方が極めて不自然で証拠捏造(ねつぞう)の疑いがある」との主張だ。(仙道洸)