モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、グループAレースに参戦したジャガーXJ-Sです。

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 1985年の第1回インターTEC。グループAマシンの国際交流マッチとも言えるこの一戦で、同年にグループAによる全日本選手権が始まったばかりの日本車勢は、ボルボ240ターボの驚速ぶりに圧倒され、完敗。大きな衝撃を受けた。

 それから1年後の1986年第2回インターTECでは、前年覇者でこの年もレースを制することになるボルボの活躍も見逃せなかったが、もう1台、結果は残らずとも“印象的な速さ”を披露するマシンがいた。それが、ジャガーXJ-Sである。

 ジャガーXJ-SがグループAのレースシーンに登場したのは、1982年のこと。この年は、カテゴリーの再編でグループCカーレースなどとともに新たにツーリングカーレースとしてグループA規定が施行され、ヨーロッパ・ツーリングカー選手権(ETC)が同規定のレースになった年であった。

 ジャガーXJ-Sは、5.4リッターV型12気筒という大排気量のエンジンを搭載。レーシングカーになっても1400㎏を超す車重があったため、レースをするには、不利なラグジュアリー要素の強いクーペだったが、TWRの車両を開発、製作する技術の高さもあって、ジャガーXJ-Sはレーシングカーとして活躍した。

 1984年にはマニュファクチャラーズタイトルは逃したものの、ウォーキンショー自身がETCでドライバーズチャンピオンに輝いた。

 ちなみに余談ではあるが、この時の手腕を買われたことも一因となってTWRは、ジャガー本社との結びつきを強め、のちにグループCカー、ジャガーXJRシリーズを手がけ、同社がル・マン24時間を制覇することにも繋がっていくことになる。

 そんなジャガーXJ-Sが日本のレースへと参戦したのは前述の通り、1986年のこと。この頃すでにETC制覇から2年が経っていて、TWRとしてもローバー・ヴィテスのほうに注力していた頃だったが、ジャガーXJ-Sは1986年のインターTECにスポット参戦を果たす。

 ジャガーXJ-Sは、重量級ながら大排気量エンジンによるパワーを富士スピードウェイで活かすことができ、予選からその速さを存分に発揮する。

 1台が前年ボルボが記録したタイムを2秒近くも上回る速さでポールポジションを獲得。国産勢も台頭し、スタリオンが予選2番手に入ったものの、3番手にはまたジャガーXJ-Sがつけ、ポテンシャルの高さをアピールしたのだった。

 決勝では、スタートから2台のジャガーとホールデン・コモドアによるトップ争いが繰り広げられたが、わずか6周目で1台のジャガーが脱落。

 もう1台のジャガーXJ-Sはその後、トップに立ったボルボを追って2番手を走っていたが、スタートから2時間半というところでトラブルによって戦線離脱。本命と目されていながらも2台揃ってリタイアという結果に終わってしまった。

 レースでこそ結果を残すことができなかったジャガーXJ-Sだが、1986年も勝ったボルボとともに日本車勢に強く印象を残こしていった1台だったと言えるだろう。