シーズン開幕前に埜口遥希のことをチャンピオン候補に挙げる人は、ほとんどいなかっただろう。ここ数年、ST600クラスは、世界帰りのベテラン小山知良と年々安定した速さを身につけてきた岡本裕生が交互にチャンピオンを獲得。2021年シーズンは岡本がST1000クラスにスイッチしたため、小山が、チャンピオン候補の最右翼となり、成長著しい荒川晃大、國峰啄磨、長尾健吾などが対抗馬として挙がっていた。当の埜口自身も、チャンピオンを狙うとは、とうてい言えない状況だった。

「2020年の最終戦でトップ争いができましたが、コロナ禍の影響を受けて開幕前に走り込むことができていませんでしたし、まずは表彰台を目標にしました。一発タイムの出し方は分かってきていましたが、レースは、また別。一度勝ってみないと分からない部分があるので、確実に上位を最後まで走って自信をつけるところから始まった2021年シーズンでした」

 奈良県出身の埜口は近畿スポーツランドのミニバイクレースで腕を磨き、2015年に中野真矢氏率いる56RACINGに抜擢される。そして、2017年、2018年とアジア・タレント・カップでランキング2位。スポット参戦した全日本ロード筑波ラウンドはデビュー戦で優勝を飾るなど非凡な才能を見せていた。2019年は、レッドブル・ルーキーズ・カップで1勝を含むランキング3位となったが、2020年にMoto3のシートを獲得できず、世界への挑戦は一旦リセットされることになる。

 そんな埜口を起用したのが、全日本ロードの名門中の名門HARC-PRO.だった。ただ、2020年は、コロナ禍にあり、シーズンが始まったのが、8月のSUGO。その事前テストで埜口は多重クラッシュに遭い足を負傷してしまう。ただでさえST600の経験がないところに怪我が重なり、なかなか、その実力を発揮できずにいた。

「それまでも与えていただいた環境で精一杯走ってきましたが、HARC-PRO.で走ることができると聞いたときは、もう一度世界を目指すために頑張れる環境だと思いました。2020年は、怪我もあり、初めてのST600を理解するまでに時間がかかってしまい、もどかしい思いもありました」

 ホンダCBR600RRは、今年、ビッグマイナーチェンジを受け、CBR1000RR-Rと同じく電子制御が進み、フロントカウルにはウイングも採用された。このマシンには、3月から乗り始める。

「エンジン以外は、それほど大きく変わっていない印象だったので、まずは自分のベースセットを探すところから始まりましたが、新型は確実によくなっていたのでアドバンテージになると思いました」

 2020年は、SDG Mistresa RT HARC-PRO.からのエントリーだったが、2021年はMuSASHi RT HARC-PRO.となっていたが、チーフメカニックも変わらず、昨年の延長上で進めることができたのが、よかったとも語っていた。

 迎えた開幕戦ツインリンクもてぎは、終始トップ争いを繰り広げ2位で終えるが、2戦目のSUGOでは、オープニングラップで目の前のライダーが転倒。これに巻き込まれてしまい痛恨のノーポイントを喫してしまう。

「開幕戦で最後までトップ争いをして2位になれたことで、今シーズンは戦えると思いましたし自信になりました。続くSUGOは、予選で最後にタイムを出そうと思っていたら霧が出てしまいグリッドが後方になってしまったのが痛かったですね。決勝朝のウォームアップ走行では、いいタイムが出ていましたし手応えはあったんですけれど……」

 ノーポイントとなってしまったSUGOラウンドでは、荒川が全日本ロード初優勝を達成していたが、小山も転倒リタイアとなっており、まだまだシーズンの流れは読めなかった。そして、シーズンで唯一2レース制となっている筑波ラウンドを迎える。

 埜口は、ウエットとなったレース1では、最後に小山にかわされ4位となったが、レース2では、レース終盤に追いすがるライバルを突き放してトップでゴール。クラス初優勝を達成した埜口は、一気に暫定ランキングトップに躍り出ることになる。

「筑波は、メチャクチャ得意というわけではないのですが、他のコースに比べれば走っているというくらいです。事前テストからペースも上がっていましたし、チームと取り組んだことが優勝につながったのは、うれしかったですし、やっと勝てたなという気持ちでした。まずは勝たないと始まらないですし、1勝できたことは、いろんな意味で大きかったですね」

 ランキングトップに立ったことでタイトルを意識し始めたが、ここまで抱えていた問題があり、何とか解決しようとチームとともに試行錯誤していた。続く鈴鹿ラウンドは、トップ争いを繰り広げるが、小山が強く2勝目をマーク。埜口は、苦しみながらも3位に入っていた。

「チームと問題点を改善しようとしていましたが、やはり苦しく、その中ででも上位につけていたので、レースでは、何とかできるかと思っていましたが、勝負するところまで行くことができませんでした。やれることは、すべてやっての3位だったので、悔しいという思いもありましたが、何とか耐えての結果でした」

 この後にあったオートポリスの事前テストでは、新たな方向性を探りつつもトップタイムをマーク。岡山国際の事前テストで本格的に新しいセットを採用し煮詰めて行った。

「新しいセットは、走り始めからいい手応えがあったのですが、事前テスト初日の2本目開始早々に転倒してしまい出遅れてしまい、レースウイークにしわ寄せが来てしまっていました。金曜はウエットでしたし、土曜も完全なドライではなかったのでセットを詰め切れていなかったので厳しいレースになると思っていました」

 そして岡山ラウンドのスタートを迎える。鈴鹿ラウンドを終えた時点でタイトル争いは、小山に流れが傾いていたが、その小山がまさかのジャンプスタートを犯してしまう。埜口は、長尾との一騎打ちを制し2勝目をマーク。再びポイントリーダーに躍り出ることになる。

「小山選手は隣のグリッドだったので動いたのが見えていました。予選、朝のウォームアップ走行と一発タイムは出ていませんでしたが、ペースは悪くなかったので手応え通り勝つことができてよかったですね」

 まさに強運の持ち主。小山は、ライドスルーペナルティを受け、ほぼ最後尾から追い上げるものの14位。荒川がランキングでは、2番手に上がるが12ポイント差。小山は15ポイント差となり、俄然、埜口が有利な状況で最終戦オートポリスを迎えることになっていた。

 勝つことで逆転のチャンスを引き寄せたい荒川、そして小山は、序盤からトップを積極的に狙い、やはりタイトルの可能性を残していた長尾もトップグループに加わっていた。

 レースも折り返しとなる8周目の1コーナーで小山がトップに立つとペースを上げる。これに呼応し荒川も続くが、9周目の第2ヘアピンで転倒を喫してしまう。

「レースが始まってから“厳しいかな”と思いましたが、決して固く走っていたわけではなく優勝を目指していました。荒川選手の転倒を見て、ポイントのことはアタマによぎっていましたし、無理をする必要はないなと切り換えました」

 逃げて行く小山を無理に追うことはしなかった埜口だが、依然、長尾と阿部恵斗が迫ってきていた。そして物議を醸し出した12周目の1コーナーに入っていく。長尾は埜口に並び、両者ともブレーキングに入っていくが接触。長尾は行き場をなくしコースアウト転倒を喫し戦戦を脱落。その後は、阿部との2位争いとなったが、最後は着実に3位でゴールし、シリーズチャンピオンを決めたのだった。

「チェッカーを受けたときは、うれしさよりもホッとしたという思いが強かったですね。チャンピオンフラッグをもらって、多くの皆さんに“おめでとう”と言ってもらえました。去年は結果が残せなかったにも関わらず、2年目を走らせてもらえたこと、チャンピオンを獲れる体制を用意してもらえたことをチームに感謝します」

「来シーズンは、まだ決まっていませんが、どんなクラス・カテゴリーを走ることになっても、いいパフォーマンスを出せるように頑張っていきたいですね」

 このシーズンオフは、片道2時間かけて立命館大学に通いながら勉学に勤しみつつ、積極的にトレーニングや練習に励んでいる。来シーズン、埜口がどのステージで走るにせよ“世界”を見据えた挑戦は、まだまだ続いて行くことに変わりはない。