『伏兵』というのも曖昧な表現ではあるが、本命とは思われていなかったドライバーの勝利、これも鈴鹿F1の歴史には決して少なくない。そして本命ドライバーが勝った場合より印象が強かったりすることも、伏兵勝利の生来の特権であろう。今回はその範疇に入ると思われる鈴鹿優勝を飾ったドライバーを3人、紹介する。

(※本企画における記録等はすべて、それぞれの記事の掲載開始日時点のものとなる)

■2011年ウイナー:ジェンソン・バトン
 2011年に関していえば、もうセバスチャン・ベッテル(レッドブル・ルノー)以外は全員伏兵、それくらいの印象とともに迎えた、全19戦中の第15戦日本GPであった。

 ベッテルは鈴鹿で1点を獲りさえすれば(10位でOK)、4戦も残して2年連続の王座獲得が決まる。14戦を終えて9勝、しかも直前3連勝での鈴鹿入りだ。得点差や勝利数ほど圧倒的なわけでは……という見方もあったりはしたと思うが、もはや鈴鹿戴冠濃厚、レースでの優勝に関しても2009年、2010年の前2年とも鈴鹿を制しているベッテルを本命と考えるのが自然であっただろう。

 ベッテル以外で唯一、王座獲得の可能性を残していたのはジェンソン・バトン(マクラーレン・メルセデス)。仮にベッテルが鈴鹿無得点の場合でも、バトンが優勝しない限りベッテルの王座が決まる、という立場だ。王座の可能性は数字的に残っているだけ、というのがバトンの実状。申し訳ないが、バトンは野球でいう“マジック対象”のような存在に過ぎないと思われていた。ところが──。

 バトンが鈴鹿で煌めいた。予選ではポールポジションのベッテルに対し0.009秒差の僅差で2番グリッドを確保し、決勝では序盤3番手の状況から、誰よりタイヤをうまく使えるバトンらしさが活きた格好の逆転優勝を飾るのであった(ベッテル3位でタイトルは決定)。

 2位のフェルナンド・アロンソ(フェラーリ)と約1秒、3位ベッテルとも約2秒という接戦ゴールで勝ったバトン。終盤は燃費と戦っていた。チェッカーフラッグを受けるとすぐにマシンを止めることになったわけだが、これもバトンの鈴鹿初制覇をより印象深いものにしている。ウイニングランを見られなかった観客は残念だっただろうが……。

 2011年は東日本大震災の年。日本GP開催の半年ほど前には未曾有といっていい大災害が日本で起きていた。その年の日本GPで勝ったのが、2006年ハンガリーGPでホンダF1第3期唯一の勝利を挙げるなどして日本とは距離が近い存在だったバトンというのは、感慨深く思えるところでもある(他の選手が勝者だったらどうこう、という話ではないので、そこは誤解なく)。

 2009年にブラウンGP(搭載エンジンはメルセデス)で自身初めて(にして唯一)のチャンピオンになったときは、シーズン後半にマシン戦闘力が低下しており、鈴鹿では8位だったバトン。だが2年後、伏兵の立場からの見事なる勝利で、鈴鹿F1ウイナーの仲間入りを果たしたのであった。

■1990年ウイナー:ネルソン・ピケ
 伏兵と見なせる立場から鈴鹿を制した者は、今回紹介する3人に限らない。1989年にベネトン・フォードで勝利したアレッサンドロ・ナニーニもそのひとりに数えられるが、ベネトンは翌1990年も勝ち、鈴鹿連覇を飾っている。

 ナニーニ紹介の回で記したように、1990年の日本GP直前にナニーニはヘリコプター事故で戦線を離脱してしまった。ベネトンはネルソン・ピケ(1981、1983、1987年王者)の新パートナーに、不遇な実力者として知られていたロベルト・モレノを抜擢する。

 この年後半の戦況は、マクラーレン・ホンダとフェラーリが激しくタイトルを争い、その後ろでウイリアムズ・ルノーとベネトン・フォードが競う、というものだった。ナニーニが上位2強に食い込む印象的な走りを何度か演じてはいたが、鈴鹿を迎える時点で優勝争いに関しては(ナニーニがいたとしても)ベネトンは伏兵の域を出ないポジションにあった。

 ところが鈴鹿では、アイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)とアラン・プロスト(フェラーリ)がスタート直後の1コーナーへの進入で“激突王座決着”(セナ戴冠)を演じるなどして、マクラーレン・ホンダとフェラーリはレース中盤までに全滅。気がつけばピケ、モレノの順でベネトンの1-2態勢となっていたのである。そしてそのまま、ふたりは1-2フィニッシュ──。

 ピケとベネトンはシーズン初優勝、モレノはF1初表彰台だ。ゴール後、同じブラジル出身で親しい“兄貴分”でもあったピケに泣きながら抱きつくモレノの姿は実に感動的で、それを受けとめるピケの姿もまた、トリプルチャンピオンらしい貫禄を感じさせるものだった。

 1989〜1990年のベネトンの鈴鹿2連勝、タナボタ度が高いことは否定できない。だが、この時代のF1は現代よりも完走率が圧倒的に低く、チャンスは来るが、いざ来たときにしっかりその位置で走りきれる力がドライバーとマシンになければ、最終的な結果は得られなかった。ピケにとっては3年ぶりの優勝、好機をものにする勝負強さは、さすがのものであった。

 そしてピケは最終戦オーストラリアGPも勝ち、2連勝でシーズンを締める。このオーストラリアGPが1950年に始まったF1世界選手権の通算500戦目だった、というのもピケらしい勝負強さの発露だろう。

 ピケという人は、通算23勝で王座3回。これは同時代に走ったプロスト(通算51勝で王座4回)、セナ(同41勝で王座3回)、ナイジェル・マンセル(同31勝で王座1回)と単純比較すると、ものすごく効率が良く、好機での勝負強さが持ち味だった(ムラがあった、とも言う?)。

 そんなピケが、伏兵の立場で持ち前の勝負強さを発揮し、鈴鹿初制覇を飾った。1990年日本GPはそういうレースであった。

 なお、当時のベネトンでは、現在はテレビ解説やF1新車私的解説などでおなじみの津川哲夫さんがメカニックとして活躍していた。津川さんはこの1990年限りでメカニックを引退されるが、ラスト2年で母国GP連覇、しかも最後は日本GP〜オーストラリアGPと2連勝だったのである。最高にカッコいい去り際であった。

■1987、1991年ウイナー:ゲルハルト・ベルガー
 前回紹介した“ナンバー2”の3人も伏兵といえば伏兵だが、鈴鹿で2回勝っているゲルハルト・ベルガー、彼の場合も1991年の2勝目、マクラーレン・ホンダ在籍時のそれはナンバー2の勝利に含まれるものだろう。

 マンセル(ウイリアムズ・ルノー)のリタイアで王座獲得が決まったセナ(マクラーレン・ホンダ)が、レースでも優勝しそうだった。だが、ポールポジション発進から序盤に大逃げを打ち、セナ援護のために走ってくれたベルガーにゴール直前で勝利が譲られる、というかたちでのベルガー鈴鹿2勝目だった。

 ベルガーの鈴鹿初制覇は、鈴鹿開催初年度の1987年。当時フェラーリに在籍していたベルガーは、栄えある鈴鹿F1初代ウイナーになったわけだが、これはちょっと珍しいタイプの伏兵勝利だった。

 1987年のフェラーリは、シーズンを通じて概ね4番手のチーム。シーズン後半になり戦力を上げてきてはいたが、それでも鈴鹿で本命となるのは、やはりマンセルとピケの最強ウイリアムズ・ホンダであり、それに対抗できるとすればセナ(ロータス・ホンダ)かプロスト(マクラーレンTAGポルシェ)と考えられていた。

 しかし、初の鈴鹿F1は思わぬ展開になる。当時は予選が金曜と土曜にあった時代だが、金曜にマンセルがクラッシュして決勝欠場確定となり、ピケの王座が確定。ウイリアムズは1台体制になり、またこういうときのピケは前述のようにちょっとムラな面もあり……?

 セナも調子いまひとつで、ホンダ勢はピケが5番グリッド、セナが7番グリッドと、鈴鹿F1を待望していたホンダファンが拍子抜けしそうなスタート位置に。そこでポールポジションを獲ったのはベルガーだった。ベルガー&フェラーリの上昇傾向と、思わぬマンセルのアクシデントを機に急失速したようなホンダ勢。上昇曲線と下降曲線が交わり逆転した、とでも言うべきか……。

 プロストの立ち位置はホンダ勢の難敵から、ベルガーの難敵に変化した。そのプロストは2番グリッド発進。しかし、レース序盤にデブリ起因らしきパンクで大きく後退してしまい、ベルガーを楽にする。

 ピケはセナの後ろになって延々と抜きあぐねているうちに、マシントラブルでストップ(15位完走扱い)。セナも最終周にステファン・ヨハンソン(マクラーレンTAGポルシェ)を抜いて2位になるのが精一杯というなか、ベルガーは完勝した。シーズン中の立ち位置は伏兵でも、レースの内容は本命のそれだった。これがレアなケースの伏兵勝利と評する理由である(続く最終戦オーストラリアGPでもベルガーは優勝)。

 フェラーリにとっては1985年8月以来、2年3カ月ぶりの勝利だった。前年の1986年にベネトンBMWで自身初優勝を飾っていたベルガーにとっては通算2勝目、フェラーリでの初勝利だ。苦しめられ続けてきたホンダ本拠地での初開催戦で、名門フェラーリがカウンターパンチ一閃。痛快なベルガー完勝劇であった。