◆ 止まらない負の連鎖…

 7月も終わりが近づき、各地で開催されている夏の甲子園・地方予選も佳境を迎えている。

 甲子園出場という歓喜に沸く勝者がいる一方で、当然ながらその裏では「あと1勝」というところで涙をのむ敗者も生まれる。




 24日は北北海道で決勝戦が行われ、旭川大が旭川東を破って3年ぶり10回目の甲子園出場を決めた。

 対して、敗れた旭川東は53年ぶり11回目の決勝進出だったが、今年も「初の甲子園出場」には届かず……。

 このように、ことごとく“最終関門”に跳ね返されてきたチームも少なくない。



◆ 決勝戦で10連敗

 初挑戦から10度にわたって地区大会決勝で敗れた過去を持つのが、東京の二松学舎大付だ。

 1971年に初めて東京大会決勝に勝ち進んだが、好投手・保坂英二を擁し3年連続出場を狙う日大一に2−12と大敗。これが長い苦難の道の始まりだった。

 1974年にも東東京大会決勝で、高橋慶彦がエースで4番の城西(現・城西大城西)に2−5で敗れ、2度目の挑戦も実を結ばなかった。

 その後、同校は1980年にセンバツ初出場。1982年にはセンバツ準優勝も達成したが、夏の甲子園への道は依然として遠かった。


 1980年夏の決勝・早稲田実戦は、初回に1年生の荒木大輔から3点を先制するも、なおも一死二・三塁でスクイズ失敗の三振併殺を喫したことで流れが変わり、4−10と逆転負け。

 1984年の決勝・日大一戦も、0−0の6回にエース・初芝清が打球を右肘に受けた影響で終盤打ち込まれ、1−3で敗れた。


 平成以降も決勝戦は“鬼門”だった。

 1992年、1998年、2002年はいずれも帝京に敗北。2003年の雪谷戦も、エースの小杉陽太が8回までゼロに抑えながら、スタンドの大半が都立高の雪谷を応援するアウェー状態のなか、0−0の9回に5点を失って力尽きた。

 さらに2004年も、修徳に2−3と逆転負け。3年連続決勝敗退という無念を味わう。

 その修徳には2013年も6−13と返り討ちされ、10度目の挑戦も“あと1勝の壁”に泣いた。

 1982年のセンバツ準V投手でもある市原勝人監督は当時、40年以上も続く“負の連鎖”について「神様がこっちを向いてないのかな。何かあるような気がします。見つかれば、こうはならないでしょう」と漏らしていた。


 その“何か”が見つかったのが、2014年の帝京戦だった。

 6回まで0−3の劣勢も、7回に1年生捕手・今村大輝が帝京のエース・清水昇(現・ヤクルト)から同点3ランを放ち、一気に流れを引き寄せる。

 その裏、1点を勝ち越されたが8回に追いつき、6回途中からリリーフした1年生・大江竜聖(現・巨人)も1失点で踏ん張る。

 4−4の延長10回一死一塁、「勝負弱いといわれた歴史を変えたかった」という主将の竹原祐太が執念の決勝三塁打を放って勝ち越しに成功。

 11度目の挑戦で、ついに夏の甲子園切符を手にした。


 1年生バッテリーの頑張りに3年生が奮起。全員の力を結集して“負の歴史”にピリオドを打つ姿を目の当たりにした市原監督は、こう語っている。

 「実は試合前に初めて選手に“甲子園に連れてってくれ”と頼んだんです。でも、選手は、最後は僕の手の中から飛び立った。勝てるときはこういうものなのかな」


◆ 霞ケ浦は茨城大会決勝で“5連敗”

 2008年から2014年までの7年間で、5回にわたって茨城大会決勝で目前の甲子園を逃したのが霞ケ浦だ。

 1990年にセンバツ初出場をはたした同校も、夏はなかなかあと1勝ができなかった。

 2008年の決勝・常総学院戦は9回二死まで2−1とリードも、甲子園まであと1球のフルカウントから痛恨の同点適時打を許し、延長10回2−3の逆転負け。

 2010年は水城に0−11と完敗。2011年の藤代戦は2年前同様、9回二死までリードしながら、ここから同点適時打とサヨナラ二塁打を浴び、5−6で涙をのんだ。

 2013年の常総学院戦も、8回表に追加点を挙げて2−0と逃げ切り態勢に入ったにもかかわらず、その裏に連続適時打で追いつかれ、9回に内田靖人(現・楽天)のサヨナラ2ランに泣いた。


 2014年も藤代に3−12と大敗し、決勝戦で“5連敗”……。

 なお、この間には秋の関東大会でも、センバツまであと1勝の準々決勝で敗れること3度。春夏併せて計8回もチャンスを目前で逃していた。

 「やはり最初のチャンス(08年)をモノにできなかったのが大きい」と“生みの苦しみ”の原因を分析した高橋祐二監督だったが、2015年の日立一戦で、ついに足掛け8年にわたる挑戦が報われる。

 初回にセーフティスクイズと長打で挙げた2点を安高颯希−綾部翔の完封リレーで守り切り、“6度目の挑戦”で悲願の夏の甲子園初出場を決めた。


◆ 3年連続で決勝戦で敗れた光星学院

 3年続けて青森大会決勝で涙をのんだ悲運のエースが、光星学院(現・八戸学院光星)の洗平竜也だ。

 1994年の八戸戦は6回に6−4と逆転しながら7回に追いつかれ、延長10回の末に6−7と惜敗。洗平は10回を1人で投げ抜いたが、5失策の守乱もあり、甲子園切符を手にすることはできなかった。


 1995年の決勝・青森山田戦も2−2で延長戦に突入。洗平は10回を6安打に抑えたが、またも勝利の女神は微笑まず、2−4で敗れた。

 そして、最後の夏となった1996年の弘前実戦は、6回まで4−0とリード。だが7回、弘前実の各打者が死球狙いで内側ギリギリに立ったことで内角を攻められなくなった洗平は、力みも災いしてあっという間に同点。

 8回にも先頭打者に死球の直後、「勝つためには代わらなければ」と自らの意思でマウンドを降りたが、流れは変えられず、4−6の逆転負け……。

 光星にとって惜しまれるのが、4点リードの7回に左飛で本塁を狙った三塁走者が、1年生・工藤隆人の好返球でアウトになった場面。このときに5点目を挙げていれば、その後の試合の流れも変わっていたかもしれない。

 それでも、3年連続決勝で敗退した光星は1997年、“4度目の正直”で夏の甲子園出場の夢を実現している。


文=久保田龍雄(くぼた・たつお)