9月22日、DeNA・後藤武敏の引退セレモニーで涙にくれる松坂大輔、後藤、小池正晃の横浜高トリオ

 涙もろい男だということは知っていた。心優しき男だということも分かっている。そして、彼が突出した才能の持ち主だということを誰よりも感じていた。だから松坂大輔は、いつも後藤武敏には厳しかった。あれは桑田真澄さんと松坂が1985年のPL学園対1998年の横浜という“仮想対決”について盛り上がっていたときのことだ。松坂はこう話している。

「僕はたぶん、桑田さんみたいなピッチャーは、あの年のウチのメンバーで言えば、セカンドの松本(勉)とか、キャッチャーの小山(良男)、センターの加藤(重之)みたいな、頭を使って打つタイプのバッターがキーになると思います。後藤ですか? アイツは桑田さんには全然、ダメです。術中にハマるタイプなんで……(笑)」

 確かに、不器用だったかもしれない。あふれんばかりの才能を思えば、プロ16年で残した通算312安打、52本のホームランはいかにも物足りない。ケガにも泣かされたし、二軍で調子がいいときに限って、一軍のレギュラーがさらに調子がいいという巡り合わせの悪さもあった。

 でも、そんな後藤だから、愛された。無骨な面構えなのに涙もろくて心優しく、才能に恵まれているのに不器用で術中にハマる……そんな後藤がみんな、好きだった。15歳のときから彼を知る松坂が、たまたまドラゴンズ戦が後藤の引退試合になったため、試合後のセレモニーに参加できた。そしてドラゴンズの選手で一人だけ、ベイスターズの選手に混じって胴上げに参加し、涙に暮れた。人前では泣きたくないはずの松坂が、人目をはばからずに泣いていた。

 じつは、後藤にはあの夏の甲子園で、忘れることのできない松坂との強烈な思い出がある。きっかけは、延長17回を戦った準々決勝のPL学園戦だった。

「あの試合の2回裏、ウチはPLに犠牲フライで先制されるんでけど、そのときのセンターからのバックホーム、僕がカットしちゃったんです。あれで大輔の記録(25イニングス連続無失点)を止めて、先制された後に追加点も取られて、しかもあのPL戦は7タコで……僕だけが蚊帳の外でした」

 後藤が今もって「野球人生のすべてのミスが出た、ワーストワンの試合」だったと振り返るPL学園との延長17回。あまりの体たらくに後藤は混乱して、ホテルへ戻るなり、非常階段の踊り場でバットを振った。そして自分の部屋へ戻った途端、電話が鳴った。

「誰かと思ったら、松坂だったんです。アイツ、『今日のことは全然、気にしなくていいからね、次もごっちゃんの力が必要なんだから、頼むね』って、250球も投げたとは思えない軽ーい感じで、電話してきてくれたんです。そんなの、オレだったら絶対にできない。だって、あれだけの思いをして投げていて、僕のミスで追いつかれて、普通だったら文句の一つも言いたくなるでしょう。それを我慢して明るく……あの松坂の言葉を聞いて、もう一度、気持ちを奮い立たせました」

 1998年の横浜高は、松坂がひときわ明るい太陽の如く、ど真ん中で輝いているように思われがちだ。いや、実際、そうなのだが、太陽がそういう顔をしていないから、惑星たちは救われる。後藤はこうも言っていた。

「松坂は昔も今も変わらず、そのままの松坂でいてくれてます。どれだけすごい選手になっても、少しも偉ぶるところがない。高校のときからあの感じがまったく変わらないんですよ。プロになった人、ならなかった人、どちらにしても高校を出てからどこかのタイミングで野球を辞めた人の中には、その後、すごく苦労したヤツもいました。そういうチームメートの代表として野球を続けてるんだという気持ちは僕も強かった。だから大輔はこれから、そういう思いを一人で背負っていくんだと思います」

 20年前、甲子園を沸かせた横浜の選手たちは、松坂を除いて全員、野球を辞めた。そして、もう終わりだとさんざん揶揄されていた松坂がドラゴンズで復活を果たし、やっぱり最後までユニフォームを着続けている。5年前に引退した小池正晃はこう言った。

「ウチはみんなが大輔に依存していなかったからこそ、PLにも明徳にもああいう勝ち方ができたんだと思います。でも、決勝でノーヒットノーランを達成したときは、『コイツ、こんなにすごいピッチャーだったんだ』って、みんなが大輔をリスペクトしてました。一緒に野球やってて良かったって……」

 1998年の横浜は太陽と惑星で構成された太陽系ではなく、恒星が集まった銀河系チームだったのかもしれない。松坂はその中で、ひときわ明るいシリウスのような存在だったのだ。

文=石田雄太 写真=BBM