『ベースボールマガジン』で連載している「現役を引退してから別のお仕事で頑張っている元プロ野球選手」のもとをパンチさんが訪ね、お話をうかがう連載です。今回は巨人、広島、ヤクルトで活躍し、現在は東京・目白でちょっと変わった喫茶店を営む萩原康弘さんをお訪ねしました。

巨人時代は“間に合わせ”。でも精神的には豊かだった



パンチ佐藤[左]、萩原康弘氏

 東京・目白の『カフェHAGI』のドアを開けた途端、パンチさんが懐かしそうに声を挙げた。

「萩原さん! 変わっていらっしゃいませんねえ!!」

“変わっていない”と真っ先に感じたのは、萩原さんのほんの少し丸い背中。小学生時代、テレビで見た巨人戦、「代打・萩原」のアナウンスを受け打席に入るときの背中、そのままだった。

「ヘルメットに手をやってモソモソしながら、猫背で出てくる。そしてしぶとく、ライト前に持っていく。シャキッとさわやかな巨人軍にあって、すごく泥臭いイメージが、今でも残っているんです」とパンチさん。

 当時の話から、対談は始まった。


V9後期の巨人にプロ入り。常に緊張感に包まれ、「いさせてもらっている」感覚だったという

パンチ まずはV6からV9を経験された、巨人時代の思い出から教えてください。

萩原 6年間お世話になって、川上(川上哲治=監督)さんに5年、長嶋(長嶋茂雄=監督)さんの最下位で終わったんですよ。小さいころから野球は巨人くらいしかテレビ放送がなくてねえ。たまたまドラフトで巨人に入って、周りを見たら錚々たるメンバーで、夢のようでした。「(プロで)3年できればいいかな」と思ってやったら、終わってみれば14年もできた。その中でも巨人時代は、恐れ多くて自分で何かをやっているというより、“いさせてもらっている”感じが強かったですね。ほとんど一軍半で、失敗するとすぐ二軍落ちかって。いつも目の前に、“多摩川”(※当時の巨人二軍グラウンド)が見えるんですよ。

パンチ 僕も同じです。僕はオリックスで門田(門田博光)さん、石嶺(石嶺和彦)さん、松永(松永浩美)さん、佐藤(佐藤義則)さん、今井(今井雄太郎)さん……あのメンバーでも震えるんですから、川上監督やV9のメンバーと一緒では、なおさら震えますよね。

萩原 監督とはしゃべったこともないですよ。挨拶をするくらい(笑)。でも、V6からV9までいさせてもらって、精神的に豊かだったというか。金銭的には潤わなかったけど(笑)、V9巨人のベンチでいろいろ経験できたのは大きかったですね。そこを買われて、広島へ行った。巨人で基本ができていたから、残りの8年間、野球ができたんじゃないかと思います。

パンチ 当時『球界の盟主』と言われた巨人から、泥臭いカープへのトレードを告げられたときは、どうお感じになったのですか?

萩原 同一リーグはあまり考えていなかったですね。僕は横浜出身で、子どものころから巨人が好きだったし、巨人で6年やって、あと何年できるか分からない。行ってすぐクビになるとか、不安もあった。それで、初めは「辞めます」と球団に言いに行ったんですよ。

パンチ 野球を辞める、と?

萩原 そう。球団からも「トレードが決まりました」という電話1本だけで説明もなかったので、自分はその程度の選手なんだなとあらためて思ったし。

パンチ それが広島移籍へ気持ちが動いたのはなぜですか?

萩原 数日後、広島の古葉(古葉竹識)監督から電話があって、「萩原君、説明不足で申し訳ない」と謝ってくださったんです。いや、行く先の監督は関係ないんだけどな、と思いながら心が動いてね。「じゃあ頑張ろう」と思った。とはいっても、俺にはさほど力はない。だからフォアボールでもデッドボールでもエラーでもいいから自分が塁に出て、そのあと誰かがホームランでも打てばいい。「なんで萩原にフォアボール出したんだ?」って言われてもいいから、そういう一つの駒、何かが起こるきっかけを作れる選手。そこに徹するのが自分の持ち場だと思った。やっぱり野球は好きだから。1年でも長くやって、巨人戦で見返すというか、「どっこい萩原はまだ生きている」と言えればいいかな、と。

パンチ カープに来て、巨人になかったいい面は何か感じましたか?

萩原「ああ、プロ野球選手らしいな」と肌で感じることができましたね。試合にも割と使ってもらえたし、「野球選手って、こんなに面白いのか」と思いました。巨人のときは正直、“間に合わせ”みたいな感じがあってね。昼間は二軍の試合で八王子あたりまで行って、後楽園に戻る途中の車で渋滞にはまると、球場に着いたときにはもう試合の7回くらいなんですよ。そこからベンチに入って、2、3イニング声を出して帰るとか。戦力じゃないじゃないですか。

「あなたの人生だから好きなことを」と奥さん



広島時代の80年10月17日のリーグ優勝決定日に先発起用され、逆転満塁弾を放ち山本浩二、衣笠祥雄に出迎えられる

パンチ 地に足がついていないような、どっちつかずのフワフワした感じから、カープに行ってどっしり野球ができたということですね。一番の思い出はなんですか?

萩原 やっぱり『江夏の21球』(1979年、近鉄との日本シリーズ)もあるしねえ。水沼(水沼四郎)さんに会うと、『水沼の21球』だって言うんだけどね(笑)。バッテリーで検証しても、どっちが外したかいまだに分からないんだって。まあ、あのときはベンチで見ていて、あかんと思っていたけど(笑)。何にしろ、そういう試合に出ていたという体験は、何人もできないじゃないですか。

パンチ ホント、10年やっても20年やっても、あんなしびれる体験を共有できるなんて、ないですよね。

萩原 僕は運がいいんですよ。V9のときも、紙一重。127試合目の阪神戦で、7点のビハインドから追い上げ、僕が上田次朗から代打逆転3ランを打って、その後引き分けになった。もしこの試合に負けていたら、優勝は巨人じゃなく阪神だったんです。次は広島に行って、連覇でしょう。古葉さんに呼ばれて、しかも戦力になれたのはうれしかったですね。

パンチ そこからヤクルトへ行った経緯はというと?

萩原 自分で分かるでしょう、「まだいける」って。だけど82年オフ、(広島)球団に行ったらクビだった。

パンチ だいたいは前触れがありますよね。打球がちょっと詰まるようになったとか、飛ばなくなったとか。

萩原 それが、なかったの。契約更改のつもりで球団に行ったら、マネジャーに「実はハギさん、来年は古葉さんの構想に入っていない」と言われてね。当時は単身赴任だったので、すぐ電話を借りて東京の奥さんに話したら、「帰っていらっしゃい」って。荷物をまとめに寮へ戻ったときには、「(年俸)アップだった?」って聞かれたくらいだからねえ。それなりに働いたということだと思うんだけど。そこへ、ヤクルトから話があったんです。

パンチ なんといても、『優勝請負人』ですからね。

萩原 請負人じゃないけどね、でもこんな鼻くそでも、6回優勝の場にいたから何かあるんじゃないかって。若松(若松勉)、大矢(大矢明彦)、松岡(松岡弘)が同期なんですよ。若松なんか野球の話も含め、家も行き来していろんな話をして、今も交流がある。彼らに出会えたという点で、14年目の成績は悪かったけど楽しい1年でした。

パンチ 財産になったという。

萩原 今はこういう仕事をしているから、それが野球に生きるかどうかというより、自分の生きざまだよね。

パンチ 最高の現役生活だったということですね。引退してすぐ、喫茶店をやろうと思ったのですか。

萩原 最初1年半、何もしなかったんですよ。毎日遅く起きて新聞を読んで、広告を見て安いものがあると並んじゃったりしてね。奥さんには「アメリカにでも行って何かやったら」って言われたけど、面倒くさい(笑)。先輩たちも心配して、「こんな仕事があるよ」と教えてくれたけど、高い給料をもらうとその分責任も伴うでしょう。俺は自分のバカさ加減も知っていたから、それは無理だなと思ってね。しばらくして奥さんに「2人で何かやろう」と話したら、「やっと働く気になった?」って言われましたよ。

パンチ 先ほどから気になっていたんですが、奥さんはどしっとした方ですねえ。戦力外通告のときも、肝が据わっておいでというか。

萩原「あなたの人生だから、好きなことを」って言ってくれたね。18歳くらいから仲間として一緒にいてね、だから「あの萩原君が高校で野球やって大学に行って、プロ野球に入っちゃった」という感じ。野球選手という職業で結婚していないから。人間として見て結婚しているから、その人が何をしようが関係ない。職業で結婚したら、その職業じゃなくなったら、魅力はないわけでしょう。

パンチ 奥さんに救われましたね。

<「2」へ続く>
●萩原康弘(はぎわら・やすひろ)
1947年11月17日生まれ。神奈川県出身。荏原高(現日体荏原高)から中大を経て、ドラフト3位で70年巨人入団。左投げ左打ちの外野手として活躍し、V9メンバーの一員に。76年広島に移籍後も連覇に貢献した。83年ヤクルトに移籍し、その年限りで現役引退。現在は都内で「CAFE HAGI」(東京都豊島区目白3-14-20 3F)を経営している。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=山口高明