1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

「全打席ホームランを狙う」



巨人・呂明賜

 プロ野球の1980年代は、台湾から来日した選手の活躍が目立つようになった時代だった。“二郭一荘”と言われたのが中日の郭源治、西武の郭泰源、そしてロッテの荘勝雄。いずれも投手だった。打者では、中日で大豊泰昭が89年にデビュー。最盛期は90年代に入ってからになるが、2人までという外国人枠の制約を受けないために、83年には来日して、名商大、中日の球団職員として牙を研いでいた。

 その一方で、活躍したのは1年に満たないながらも、長くプレーした顔ぶれに勝るとも劣らない印象を残した巨人の呂明賜。実際のところは諸説あるようだが、台風の語源は「台湾の近海で発生することが由来」と言われることもあり、しばしば彼らが巻き起こした旋風は“台風”にたとえられた。そんな“台風”たちにあって、その“最大瞬間風速”では間違いなくトップだろう。

 台湾は高雄市の出身。3人きょうだいの末っ子で、リトルリーグで世界選手権の優勝を経験、大学時代には台湾ナショナルチームの四番打者を務めて通算112本塁打を放つ。

「夢は日本のプロ野球で力を試すこと。あこがれは王(王貞治)さんのいる巨人」

 と、来日する前から語っていた。台湾には兵役があったが、体重が重すぎれば兵役が免除されるという特例があり、体重を100キロ近くまで増やして兵役を免れ、88年に来日して故郷の英雄でもある王が指揮を執る巨人へ。そのときの体重にちなんで背番号97が与えられた。

 ただ、当時の巨人は、打者では歴戦のクロマティがいて、現役バリバリのメジャー・リーガーで投手のガリクソンが入団したばかり。背番号97は“第3の外国人”をも意味していた。当然のように、開幕から二軍で過ごす。だが、6月13日の阪神戦(甲子園)でクロマティが死球を受け、骨折。その穴を埋めるべく、白羽の矢が立った。

 翌14日のヤクルト戦(神宮)から一軍に合流すると、いきなり「六番・右翼」で先発出場。その第1打席だった。1回表一死一、三塁。ギブソンが投じた2球目を、フォローの大きな独特のフォームで振り抜くと、左翼上段へアーチを架ける初打席本塁打。

「甘い球が来たから打っただけです」

 と淡々と語った一方で、

「全打席ホームランを狙う。尊敬する王監督のためにガンガン打ちまくりたい」

すさまじい勢いで列島を縦断したが……


 現地での読み「ルー・ミンスー」にちなんで呼ばれた“ルー台風”は、急激に発達して勢力を拡大、猛スピードで列島を縦断していった。デビューから9試合で7本塁打の固め打ち。87年に来日したヤクルトのホーナーが巻き起こした旋風に匹敵するフィーバーとなり、“アジアの大砲”の呼び名も定着した。

 なかなか闘志が前面に出てこないと言われる巨人ナインにあって、全力プレーも魅力。7月17日の大洋戦(横浜)では四番にも座った。終盤は内角攻めに苦しめられたが、最終的には79試合で16本塁打。さらなる活躍を期待され、オフには背番号も12番に変更された。だが、そのオフのキャンプで取り組んだフォーム改造で運命が暗転。猛威を振るった“ルー台風”は急速に衰えていった。

 翌89年のオープン戦は本塁打ゼロに終わり、4月12日の阪神戦(甲子園)でシーズン初本塁打を放ったときには、

「昔のフォームで打てたみたいだ。少しずつ思い出して頑張りたい」

 と語ったが、開幕前に故障離脱していたガリクソンが復帰すると、5月4日に二軍落ち。プロ野球で初めてシーズン打率4割をうかがうクロマティの絶好調もあって、そのまま“第3の外国人”が定位置になってしまう。

 その後も二軍では活躍を続けたものの、一軍での出場機会には恵まれず、91年オフに退団して帰国。台湾球界へ復帰すると打棒も復活して、リーグの中心打者として活躍を続けた。その後は指導者の道へ進み、2013年には台湾チームの監督として侍ジャパンとの強化試合を戦っている。

写真=BBM