月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。4月号では懐かしの助っ人に関してつづってもらった。

連覇に貢献したスティーブ、テリー



80年代前半、西武で活躍したスティーブ(左)、テリー

 クラウン時代の1978年、中日から移籍してきたのがウィリー・デービスだった。メジャーでは主にドジャースでプレーし、通算18年で2561安打、398盗塁をマーク。“クロヒョウ”の異名を取り、スピードが売りだった。77年中日入り。37歳だったが、巨人戦でランニング満塁弾を放つなど、脚力は健在だった。中日では打率.306、72試合の出場ながら25本塁打を放ったが、首脳陣とトラブルを起こすなど素行面に問題があり、クラウンへやってきた。クラウンでは127試合に出場し、打率.293、18本塁打をマークした。

 西武時代の80年にはテーラー・ダンカンという外国人選手がいた。メジャーでは通算2年で112試合に出場したのみ。私と同じ三塁手で、自分のほうがいいプレーをするなと感じていたが、外国人ということもあり、ダンカンのほうが積極的に起用された。前期、14本塁打を放ったが、打率.235と確実性がなく、拙守も連発していたから前期だけで解雇されてしまった。

 後期からチームの一員となったのがスティーブ・オンティべロスだ。左右両打席から広角に打ち分けるシュアなバッティングがとにかく絶品だった。選球眼にも優れ、来日6年で打率3割を5度マーク。83年、84年には最高出塁率のタイトルも獲得した。

 そのスティーブとともに82、83年の連続日本一に貢献してくれたのがテリー・ウィットフィールドだ。81年に来日すると、いきなり打率.316、100打点をマーク。とにかく勝負強いバッターで82年、日本ハムとのプレーオフ第4戦(後楽園)では5回に特大の逆転満塁本塁打。そして83年、巨人との日本シリーズ第7戦(西武球場)では2点ビハインドの7回無死満塁で、西本聖から左中間へ走者一掃の逆転二塁打を放ち、“打倒・巨人”の立役者となった。スティーブもテリーも本当に気のいい奴で、何事にも一生懸命な選手だった。

デストラーデの加入で最強西武が完成



左右両打席から本塁打を量産したデストラーデ

 森祇晶監督の就任とともに来日したのがジョージ・ブコビッチ。開幕から四番を任されたが、高卒新人の清原和博が期待どおりの活躍を見せたことで、その座を奪われる。特筆すべき結果を残していないが、史上唯一の第8戦(広島)にもつれ込んだ86年の日本シリーズではには同点で迎えた8回表に決勝の二塁打で日本一を呼び込み、翌87年には第3戦(後楽園)で巨人の江川卓から決勝本塁打を放っている。

 このブコビッチはスティーブ、テリーと違い、あまり周囲と話すこともなく、常に渋面を作っていた。しかし、あるとき、「ヘイ、イハラサン、スマイル」と言われたことがあった。「おまえに言われたくないよ」と心の中で思ったが、なぜそんなことを言われたのか、いまだに解せない。

 ライオンズ史上でやはり最強の外国人と言えばオレステス・デストラーデだろう。89年途中に来日し、その年、83試合の出場ながら32本塁打。翌90年からは3年連続本塁打王に輝いた。デストラーデがチームに加わったことで黄金時代の西武というチームが完成した感がある。左右両打席から本塁打を量産するパワーヒッターが五番に座り、秋山幸二、清原和博とともにクリーンアップを形成する、いわゆる“AKD砲”が完成。このクリーンアップトリオは史上最強と言えるのではないか。現に西武は90年からリーグ5連覇を達成している。

 デストラーデはわれわれが日本語で話しかけると、それを繰り返す。日本語を覚えようと必死だったのだ。日本に溶け込もうとする姿が素晴らしかった。

 思えば以前はメジャーで実績を残した選手が晩年、来日していた。しかし、力の衰えがあり、さらにメジャーでプレーしていたプライドもあるから異国の地で結果を残すのは難しい。近年はメジャーで実績がなくても、ハングリー精神を備えた選手が日本にやってくるようになった。やはり、外国人が成功する大きな要因は日本野球に溶け込もうとする姿勢を持つことになるのは間違いないだろう。

写真=BBM