1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

ニッポンでの成功の秘訣とは?



近鉄・ブライアント

 1989年。近鉄のブライアントは不機嫌だった。開幕から打撃不振に苦しみ、それが守備にも悪影響を与えたのか、平凡なミスを繰り返した。6月20日のロッテ戦(川崎)では、近鉄に入団して初めて先発メンバーから外され、翌21日の同カードでは、22試合連続三振という不名誉なパ・リーグ新記録。喜劇俳優のエディ・マーフィに似た風貌で陽気な印象が強いが、神経質な一面もあり、

「マスコミは悪い話だけ聞いてくる。インタビューはノーだ」

 と、このときは取材を拒否している。

 のちに、日本での成功の秘訣を聞かれたときには、こう答えている。

「シンボウ」

 辛抱。日本での打撃の師匠でもある中西太コーチの「辛抱じゃ」という口癖を覚えたものだった。もっとも、中西コーチと出会う前から「シンボウ」の連続だった。だからこそ、その日本語が心に染み入ったのだろう。

 81年6月のドラフトでドジャースから1位で指名されて入団も、マイナーと行ったり来たり。87年オフ、監督に「出番は少ないだろう」と言われ、チャンスを求めて来日。ただ、入団したのはセ・リーグの中日だった。当時は外国人選手の一軍登録枠は2人で、中日では郭源治、ゲーリーが絶好調。居場所は“第3の外国人”、つまりファーム暮らしだった。

「苦労した覚えしかない。朝が早いし、練習も超ハード。日本語が分からないのに通訳もいない。軍隊生活をしているようだった」

 まだ「シンボウ」という日本語は知らなかっただろう。だが、間違いなく「シンボウ」の日々だった。それが報われたのは6月。近鉄のデービスが大麻不法所持で逮捕されて解雇、その穴を埋めるべく、金銭トレードで近鉄へ移籍することになる。中西コーチとのマンツーマンの猛練習を経て、74試合で34本塁打。近鉄も追い風を受けて、V4をうかがう西武を猛追した。

 シーズン最終戦は伝説の“10.19”だ。全日程を終えた西武から王座を奪うためには、ロッテとのダブルヘッダー(川崎)で連勝しなければならなかった。第2戦の8回表にシーズン34号となる勝ち越しソロを放つも、その裏に早くも同点に追いつかれ、そのまま延長戦に突入。同点のまま優勝を逃した。無念のまま迎えたオフを挟み、雪辱を期した翌シーズンにもかかわらず、なかなか調子が上がらなかった。

 そして89年、「シンボウ」の前半戦。復調したのは夏場を過ぎてからだった。近鉄も8月12日の日本ハム戦(東京ドーム)に勝って首位に浮上。その後は西武、オリックスと三つ巴の優勝争いとなっていく。

そして奇跡の4連発


 奇跡を起こしたのは10月12日、首位の西武とのダブルヘッダー(西武)だ。近鉄は1ゲーム差に迫っていたが、敗れれば優勝は絶望的という状況は前年の“10.19”と似ていた。

 第1試合、4回表の第2打席でソロ。6回表の第3打席で同点の満塁弾を放つと、右手を高々と突き上げた。8回表の第4打席で勝ち越しのソロを放ったときには、両腕を上げて絶叫。第2試合の第1打席は敬遠で歩かされたが、第2打席では勝ち越しソロを放つ。2試合にまたがる4打数連続本塁打。2連勝した近鉄は14日に優勝、その立役者は最終的に49本塁打、121打点で本塁打王、MVPに。プロ野球新記録の187三振を喫していたが、それを帳消しにする活躍だった。

 現在もプロ野球記録として残る204三振を喫した93年は本塁打王、打点王の打撃2冠に輝き、以降2年連続で本塁打王に。95年オフに退団したが、三振王も5度。それから20年以上を経た現在もシーズン三振記録の歴代4位までを独占している。

 一方で、三振というリスクを抱えながらの豪快なフルスイングは、驚異的なペースで、すさまじい飛距離の本塁打を量産した。90年には設計者が「当たるはずがない」と断言した東京ドームの地上43メートルに設置されたスピーカーに打球を当てて、認定本塁打となったこともある。

写真=BBM