プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

身内に敵を作って自身を追い込んだ若手時代



近鉄・鈴木啓示

 昭和の昔、映画やテレビで『旗本退屈男』という時代劇が放映されていた。勧善懲悪は時代劇の定番どおりなのだが、印籠で悪人をひれ伏させるでもなく、お白洲の高いところから刺青を見せつけて往生際も悪い悪人を喝破するでもない。眉間の刀傷を指し示して呵呵大笑、そこから単身、大勢の悪人どもを斬り伏せていく痛快時代劇だった。

「男がケンカして眉間に受けた向う傷や。完投や勝ち星よりも威張れる数字かもしれんね」

 こう語ったのは、近鉄ひと筋、通算317勝を積み上げた左腕の鈴木啓示だ。おそらくは、プロ野球で最後の300勝投手となるだろう。だが、「威張れる数字」は、決してポジティブな記録ばかりではない。通算先発勝利288、通算無四死球完投勝利78、そして通算被本塁打560。先発勝利と無四死球完投はプロ野球記録であり、被本塁打は世界記録でもある。

「日生、藤井寺と狭い球場で、(監督の)西本(西本幸雄)さんが“飛ぶボール”だったこともあるけど、逃げ回ったんと違う、完投にこだわり、ストライクゾーンで勝負した証」

 こう胸を張る。いずれも、いかにも昭和らしいエピソードだ。平成を経て令和となった現在では、天然記念物のように見られるかもしれない。だが、そんな時代が昭和だった。

 兵庫県の出身。少年時代は阪神ファンで、“炎のエース”村山実にあこがれた。育英高では快速球左腕として鳴らし、阪神のスカウトから中退して入団するように言われたが、周囲から「卒業してからのほうがいい」と言われて断っている。だが、ドラフト制度が導入されたことで状況が一変。第1回のドラフト会議では阪神から指名されず、近鉄から2位で指名された。村山の母校でもある関大からも誘われ、4年後に阪神へ入団するチャンスに懸けようとも思ったというが、ドラフトがある以上どうなるか分からないと入団を決めた。

 当時の近鉄は“パ・リーグのお荷物”。

「先輩たちは負けても平気。最初は、プロはそういうものなんかな、毎日、切り替えないといかんのかな、と思っていたけど、考えたら違う。先輩がアマチュアなんだと思った」

 1年目から10勝。オフになると、すぐに寮を出てマンションを借りた。それも近鉄の沿線ではなく、よりによってライバル球団でもある阪急の沿線。露骨に敵視する先輩もいたというが、こうして身内に敵を作ったことが自分自身を追い込み、結果を呼んでいった。

昭和男たちの時代


 2年目の67年から5年連続で20勝を超え、68年にはノーヒットノーラン、24勝を挙げた69年には初の最多勝。だが、72年からは故障もあって3年連続で20勝に届かず。そんな74年に就任したのが西本監督だった。ともに昭和の頑固者。たびたび衝突したが、最後は若者が折れた。速球で真っ向勝負を譲らなかった左腕は、緩急や制球力を磨くようになり、ふたたび勝ち星を伸ばしていく。

 77年には20勝で2度目の最多勝、翌78年にはキャリアハイの25勝、防御率2.02で投手2冠に輝いた。だが、その78年、近鉄は後期優勝が懸かった阪急との“藤井寺対決”に敗退する。このときには、

「監督、僕らを見捨てないでください」

 と、辞意を固めていた西本監督に直訴。衝突し、徐々に心酔していった西本監督は、初めて巡り合った恩師でもあった。

“向う傷”は敵が強くないと燃えなくなるのか、リーグ連覇の79、80年は精彩を欠き、81年には5勝に終わる急失速。さすがに近鉄も最下位に転落した。このときも勇退する西本監督の檄を受けて再生。84年には16勝を挙げ、通算300勝にも到達、モットーの“草魂”は流行語にもなった。だが、

「魂の抜けた、ただの草になってしまった」

 と翌85年シーズン途中に現役引退。のちに近鉄の監督となるも、このときは絶対的エースの野茂英雄と対立。野茂は近鉄を飛び出し、メジャーで活躍を続けた。このとき、すでに昭和は終わり、時代は平成となっていた。

写真=BBM