南海時代の野村克也さん

“ささやき戦術”の洗礼を初めて受けたのは村上雅則投手から本塁打を放った後だったという。1972年、伊原春樹氏の西鉄でのプロ2年目のシーズン。大阪球場での南海との一戦で村上の内角直球をたたいた打球は左翼席へ飛び込んだ。迎えた第2打席。バッターボックスに入った伊原氏の耳に野村克也捕手の口から発せられた“ささやき”が届いた。

「おい、さっきは狙っていたんかい? もういっちょういくか」

 この“ささやき”を伊原氏はまったく疑うことがなかったという。

「三冠王まで獲った野村さんが言うのだから真っ白な、素直な心で、本当にほうってくると思ったね(苦笑)。『よし!』と思ってバットを振ったらアウトコースのシンカー。体が前に出て当てるのに精いっぱい。セカンドゴロに終わったよ。ある意味、プロの厳しさを味わったかな」

 伊原氏はもともと南海ファンだった。

「広島の地元の近くにお寺があって、近所の友達と寺の境内で三角ベースをやったり、夏休みのラジオ体操をやったりしていた。そこに遊びに行ったとき、当時は甘い食べ物もあまりない時代だから、お寺のお供え物が食べたいなと思っていると、『掃除したら食わせてやるよ』と住職さんがよく言ってくれた。その住職さんに野球はどこのファンかと聞かれて、カープと答えたら、『南海ファンになったらお供えをやるぞ』と。みんなすぐに南海ファンになったよ(笑)」

“不純”な動機で南海を応援するようになったが、実は野村捕手に手紙を送ったこともあるそうだ。

「小学6年か中学1年のころ、野村さんに『サインをください』ってね。サインは当然、来なかったけど。プロに入って79年、ライオンズが埼玉に移転して西武になったら、そこにまさかの野村さんが入団。大田卓司と野村さんを食事に誘ったことがあって、そこで子どものころ野村さんに手紙書いたことを話したら、『そうか……覚えてないな』と。まあ、覚えているわけはないよね(笑)」

 2000年には阪神・野村監督の下で1年だけ守備・走塁コーチを務めた。巨人ヘッドコーチ時代には楽天を率いていた野村監督との間で“ルンバ騒動”もあった。いろいろと因縁深い両者だったが、野村さんが亡くなられた今、伊原氏がその思い出をしみじみと語ってくれた。

文=小林光男 写真=BBM