師と弟子との格闘



ヤクルト時代の野村(左)と古田

 中国の唐朝時代を代表する文人、韓愈(かんゆ)が記した雑説の冒頭に、「千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず」とある。3900キロメートルの距離を駆け抜ける馬は存在するが、その素質を見抜いて引き出してくれる者は少ない。古田敦也という非凡な才能を持つ若者がプロのドアをたたいたとき、監督に野村克也という希代の野球人がいた。2人の出会いは、球界にとってまさに僥倖だった。

 球界を代表する名選手として一時代を築き、捕手で通算2097安打を記録。2度の最優秀選手(MVP)や10度のベストナインなど輝かしいキャリアを誇る古田は、恩師の訃報に動揺を隠せなかった。「頭を使えば弱いチームが強いチームに勝てるということをたたき込まれた。影響を受けた野村さんの教えを次の世代に伝えていくのが役目だと思っている」。沈痛な面持ちで絞り出した。

 慈愛に満ちあふれた師弟愛――。野村と古田の関係は、そんな甘く美しいものではなかった。古田は「一緒に仲良く食事に行くとか、そういう感じではなかった」と回想。情が移れば言いたいことを飲み込み、厳しい決断もできない。古田に一線を引いた野村の態度は徹底。まるで師と弟子との格闘だった。

 1990年、野村は現役引退から10年ぶりに監督としてグラウンドに復帰。古田は立命大を経て、その年にトヨタ自動車からドラフト2位でヤクルト入りした。強肩に加えてキャッチングがうまく、スローイングも抜群。野村が最も驚かされたのが、打てば響くような聡明さだった。

「捕手はグラウンドの司令塔」。久しぶりの逸材の出現に野村は持論を再確認し、後継者としての育成を決めた。初年度から古田を積極的に起用。その教育は手厳しかった。「三流は無視、二流は称賛、一流は非難」。南海の名将・鶴岡一人に対応法を学んだ指揮官は、古田に遠慮ない非難の声を浴びせた。悩んだ揚げ句のリードで痛打されると、「投手を生かすも殺すも捕手次第だ。その1球を選んだ根拠を示せ!」と激怒。全国のファンが見つめる試合中だろうが、傍らに立たせて長時間の叱責をした。今で言うパワハラまがいのしごきに、古田はじっと耐えた

 前時代の野球が根性論や観念論をベースにした文系的発想だとすれば、ID(データ重視)野球は理論に裏打ちされた理系的アプローチだ。だが、気まぐれな人間が演じるスポーツに、いつも正解があるとは限らない。あれほど頭脳明晰な野村なのに、勝負どころのカウントをよく誤り、それを指摘しながら古田を責めることがあった。楽天監督時代には、嶋基宏もその不可思議な洗礼を浴びている。周りから見ると、あたかも結果論のケースも少なくない。勘違いなのか、それとも意識的なのか。野村が求める野球を突き詰めようとすればするほど、古田は悩まされた。

「あのおっさん、たまらんよ」――。広沢克己、池山隆寛、橋上秀樹らチームメートは、古田が思わず漏らしたため息交じりのつぶやきを聞いたことがある。同情して慰めようとしたが、落ち込むどころか、目はらんらんと輝いている。教え込まれた理論は準備万端。その上で不確定要素が満載の局面に、どう対応すればいいのか。古田は野村への反骨心を発奮材料に、頭をフル回転させた。

意思を持つ精密機械に


 そんな中、指揮官が「捕手で一人前にするため目をつぶる」と公言していた打撃が急成長を遂げた。1年目に.250だった打率は、2年目に.340と上昇。ロッテ時代にパ・リーグトップに5度輝いた落合博満(当時は中日)に競り勝ち、首位打者のタイトルを獲得した。捕手としては南海時代の野村以来、史上2人目の快挙だ。打者との駆け引きに腐心し、いつしか自らの打撃にも波及。師から強さとしたたかさを吸収し、古田はいつしか押しも押されもせぬ攻守の柱に育った。

 野村が「選手が最も成長する場」と強調したのが日本シリーズだ。知将・森祇晶率いる西武との93年の同シリーズは、指揮官とともに古田と西武の伊東勤の2人の捕手による「代理戦争」が注目された。ヤクルトは前年、西武に3勝4敗で敗退。相手打線には辻発彦、石毛宏典ら好打者に、清原和博、秋山幸二ら中軸と、1年前と変わらぬ面々がいる。雪辱を晴らすために古田は燃えたぎった。

 3勝3敗でもつれた第7戦。ヤクルトは1点リードしていたが、2回から7回まで両軍とも得点がなく、膠着状態が続いていた。8回一死、古田が中堅への三塁打を放つ。続く広沢の打球はボテボテの遊ゴロとなったが、三塁走者の古田は独自の判断で猛然と本塁に突入。意表を突く走塁でチームに15年ぶり2度目の日本一を引き寄せた。冷静なグラウンドの司令官らしい、短期決戦の意味を把握した上でのビッグプレー。本職では右ヒジの故障から復活した川崎憲次郎を巧みにリードして2勝を挙げさせるなど、攻守の活躍で常勝西武の4連覇を阻んだ。

 当時、野村は伊東と古田について話したことがある。森から1球1球サインの指示を受け、緻密で破綻のないリードを習得した伊東は、「能力の高い投手のパフォーマンスを100パーセント引き出せる捕手」だという。一方、古田については、「色気を出すタイプ」。調子が悪い投手でも、あの手この手で何とかしようとする攻撃的なリードを、独特な言い回しで表現した。

 データを駆使しながら、ここぞの場面では感性と洞察力を生かしたギャンブル的な面もある意外性。矛盾と複雑さが混在する野球と師匠を理解し、乗り越えるためにもがき続けた。セオリーに縛られずに柔軟な発想を見せる教え子は、意思を持つ精密機械となった。

 野村の考える野球の段階には、「基礎、基本、応用」がある。プロとしての自覚と初歩的な行動や技術が基礎ならば、IDが基本。そして応用は、それぞれが知恵を振り絞り、確立していくべきものなのだろう。生前、野村は「俺は理想が高い。だからぼやく」とうそぶいた。謎めいた言動の一つひとつを、選手がどう受け止め、どれだけ頭を働かせることができるか。素晴らしい音楽家が決して聴衆の顔色をうかがうことはないように、古田は野村とID野球に盲従せず、媚びることはなかった。だからこそ野村の後継者たり得る捕手として大成できた。

 昨年7月、ヤクルトOB戦が行われた雨の神宮球場で、古田の発案で野村が打席に立った。足元がおぼつかない野村は、古田、川崎、池山らに体を支えられながら1球見逃した後の2球目を空振り。力はなかったが、懸命のスイングにスタンドからは大歓声が湧き起こる感動的なシーンだった。「金を残すのは三流で、名を残すのは二流。そして、人を残すことこそが一流」。そう言い続けた野村の野球人生は、古田という最高の“作品”を作り上げたからこそより光り輝いている。(敬称略)

写真=BBM