一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

荒川博、広岡達朗それぞれの去就



表紙は南海・佐藤道郎


 今回は『1970年11月30日号』。定価は80円。

 ヤクルト監督となった三原脩監督が退団した近鉄は、後任に鶴岡一人を狙っていた。
 鶴岡は元南海の名将。10月25日には正式に就任要請も行っている。

 この後、人間ドック入りするという鶴岡は、
「近鉄さんの事情もあるので、できるだけ早く決めたい。しかしワシももう若こうない。今度ばかりは慎重になるで。若いときには向こうみずになれるが」
 えらくジジくさいが当時はまだ54歳だ。

 鶴岡が南海のユニフォームを脱いだ後、正式に監督就任要請をしたのは阪神、ヤクルトに続き3球団目。それ以前にも水面下の話はあり、蔭山和夫に監督を譲った際、東京(ロッテ)の永田雅一オーナーに熱心に誘われ、一度はクビを縦に振ったらしいが(鶴岡自身は明言せず)、蔭山の急死で話が消えた。

 永田は今も鶴岡に執着し、近鉄に奪われてはたまらぬと濃人監督解任に動き出そうとしていたが、優勝後だけに周囲に止められていたようだ。
 かつて60年に優勝監督・西本幸雄を解任した人だが、今の球団内では、そこまでの無理強いはできない。

 鶴岡はヤクルトから話が来た際、就任条件としてフロントなどの人事権のあるGM兼務のような役割を要求し、断られたという話は以前書いたが、現状では鶴岡が南海と同じ関西私鉄の近鉄に行くことはないだろうとも言われていた(阪神も同様)。

 黒い霧事件で出場停止処分となっていた村上公康と船田和英の処分は11月30日に解けた。一時はそのまま自由契約、あるいは他球団に移籍になるのではと言われたが、今のチーム状態ではきれいごとばかり言っていられない。西鉄に残留となるようだ。

 退団濃厚と言われた広島のコーチ、広岡達郎だが、「あれは雑談を書かれただけ。辞める気はない」と言っていた。
 こういうことを報道陣の前で言っていたのは確からしい。
「これまで監督から、こうしたいんだがという相談は一度もなかった。いつもこうすると断定的なことばかり。こんな体制にはついていけない」
 思ったことは口にしないと気がすまない人なのだろう。

 根本陸夫監督は、もともとこういうケンカを買うタイプではなく、「自分も反省している」という大人の態度で調整するのでは、と言われていた。

 大洋に入団した? 荒川堯。父の博は「息子と敵味方に分かれたくない」と巨人を退団し、評論家に。9年間続いた荒川道場の看板もたたむことにしたという。
 ドラフトではくじの運の悪さで定評があった巨人が珍しく二番目を引き当てた。もし浪人したままだったら巨人入りがかなったのでは、という意地の悪い質問に対し、荒川博は、
「冗談じゃない。1位の南海は堯を指名しただろうからね。いまごろ大阪に行くのは嫌だとまた悩んでいたさ」
 と答え、堯は
「後悔なんかしていません。大洋はいいチームです。来年は必ずみなさんの期待にこたえるようにやってみます」
 と話していた。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM