典型的な「ホームランか、三振か」



阪神・ディアー

 1994年(平成6年)の開幕第1号ゴールは、18歳の新人選手だった。

 前年度からの社会的なブームが続く、2シーズン目のサッカーJリーグで開幕弾を決めたのは、ジェフ市原のルーキーFW城彰二である。ガンバ大阪戦の前半24分、左サイドからのセンタリングに頭で合わせ得意のヘディングでプロ初ゴールを決め、のちにトレードマークとなる前方宙返りのゴールパフォーマンスも披露。“ドーハの悲劇”で日本代表の出場はならなかったが、94年のアメリカワールドカップはリアルタイムでお茶の間に流れ、当時の少年たちは漫画『キャプテン翼』を入口に、スーパーファミコンの『スーパーフォーメーションサッカー』や『Jリーグサッカー プライムゴール』といったTVゲームからもサッカーを学んだ。いわば日本で野球もサッカーもフラットに楽しめる環境が整った最初の世代である。

 さて、そんな時代の変わり目の94年のプロ野球界では、年俸2億7000万円の大物助っ人大砲が注目を集めていた。阪神の新外国人選手、ロブ・ディアーである。190センチ、105キロ、胸囲130センチの巨体から放たれる打球の威力はすさまじく、前年のメジャーホームラン飛距離ランキングでは、なんと408フィート(約124.4メートル)で全体の3位にランクイン。デトロイト・タイガース時代には、左翼二階席の屋根を越える超特大アーチを放つなど、世界屈指の飛ばし屋として知られていた。

 8年連続20本塁打を含む通算226ホーマーだが、総安打数は844本。92年は97安打中32本がホームランで、3本に1本は本塁打というナチュラル・ボーン・スラッガーだ。同時に確実性は恐ろしく低く、91年の打率.179は当時のメジャー規定打席到達者では史上最低記録。通算1379三振を喫しており、来日前年の93年も打率.210、21本塁打に169三振で自身4度目の三振王にもなっている。典型的な「ホームランか、三振か」(意外に四球も多かった)という打者だけに、いったいこの33歳の元メジャー・リーガーが日本野球にどう適応するかキャンプから注目された。

 大阪空港内で行われた来日会見の第一声は日本語で「コンニチワ」と明るく登場すると、高知県安芸市営球場の最長不倒距離とも称される160メートル弾をかっ飛ばし、ベテラン記者は「あんなデカい当たりは見たことない」と絶句。甲子園での初練習でも87スイング中21発もスタンドに放り込む。『週刊ポスト』94年3月18日号によると、報道陣から「三振が多いようですが」と質問が飛ぶと、「帰らせてもらう」なんつって立ち上がりかけるベタなギャグも披露。関西マスコミは、このノリのいい大リーガーに好意的で、春のディアーフィーバーが巻き起こる。

フィルダーの再来を期待も……



打撃の粗さが解消されることはなかった

『週刊ベースボール』94年3月21日号では「パンチョ・伊東の“異邦人見聞録”」にてディアーの独占インタビューが掲載。「アリゾナに住んでいたときに、テコンドーを6年間も習っていたから、日本のことはそれなりに知っていたよ(笑)」と謎のアピールをかますディアーは、日本の野球や生活スタイルも気に入ったようで、ご機嫌な発言を連発している。

「あっ、そういえば、キャンプのとき食べたんだが、美味いものがあったよ。ホラ、薄〜くのばして焼いて食べるヤツ、あれ何ていったかな(同僚のオマリーに連れられていったお好み焼き屋と通訳が補足)」

「(オマリーとは)ウン、ベストフレンドだよ。10年前に大リーグに初めて上がったサンフランシスコ・ジャイアンツで一緒にプレーしたんだ。それからの付き合いで、まさか日本の、しかも同じチームで一緒にやれるとは思わなかった。まさか、ねえ」

「(外野が本職も)今、ファーストの守備を毎日エンジョイしながらやってるよ。(日米の野球の違いは)仲が良かったフィルダー(デトロイト・タイガース)から秘策を聞いたし、昨年レッドソックスの打撃コーチ、マイク・イースラー(元日本ハム)から、日本のストライクゾーンのこともあらかじめ聞いておいたからね。大丈夫さ(笑)」

 そう、ディアーは同じ右の大砲ということもあり89年に阪神でプレー後、メジャーの本塁打王にもなったセシル・フィルダーの再来を期待されていたのである。オープン戦では満足に打球が前に飛ばず、評論家から「上体が突っ込むから内角の速球、外角の変化球に対応できない」と酷評されるも、フィルダーもオープン戦では散々の出来ながら、ペナントでは爆発して38本塁打を放ったと前を向く。しかし、ディアーは開幕しても4試合で14打数1安打10三振と、早くも“2億7000万円の大型扇風機”とか“2億7000万円のオマリーの話し相手”なんて叩かれてしまう。

 ファンからは、ライトには人気者の亀山努を使えという声もあがり始めた開幕5試合目、自慢の顎ヒゲを剃り打撃フォームを一本足打法にチェンジした打率.071の背番号57は、第2打席で横浜・有働克也の直球をとらえバックスクリーン右へ来日第1号を放り込む。普段は冷静な中村勝広監督もベンチを飛び出して悩める新助っ人とハイタッチ。ゲーム後に「もう1試合様子を見てダメだったら休ませるつもりだった」と指揮官は本音を見せた。

226打席で76三振



危険球退場の第1号にもなった

 しかし、その後もディアーは外角のカーブやスライダーに同じような空振りを繰り返し、三振の山を築いていく。さらに予想外の出来事で平成球史に名を刻むことになる。5月20日の中日戦(ナゴヤ球場)で郭源治のすっぽ抜けたシュートがディアーのヘルメット左側部を直撃。これが同月13日に施行されたばかりの危険球退場の第1号となった(5月11日のヤクルト対巨人戦での度重なる乱闘劇がきっかけとなり、新たにセ・リーグアグリーメントが設けられていた)。

 話題になるのは死球と三振率の高さ。それでも中村監督は「三番・ディアー、四番・オマリー、五番・石嶺和彦」のオーダーを試したり、我慢強くスタメン起用でディアーの爆発を待つ。だが加齢による動体視力の低下に加え、極度の乱視で甲子園の暗めの照明ではボールがよく見えていないというズンドコエピソードもささやかれ、打率1割台と復調の兆しはないまま徐々に出番を減らしていった。チームはBクラス(最終順位はヤクルトと同率4位)に低迷し、8月に右手親指靭帯断裂の故障で帰国するとそのまま退団。結局、70試合で打率.151、8本塁打、21打点、OPS.576。226打席で76三振という、いかにもディアーらしい数字が残っている。

 元大リーグのスター選手にもかかわらず、虎番記者には「オハヨー」と気さくに声をかけるナイスガイとして知られ、真面目な性格でコーチのアドバイスも真摯に聞いた。しかし、石井晶打撃コーチは20代中盤のフィルダーには、バットを持って構えさせ左肩にテニスボールをぶつけて、上体が突っ込んだり開いたりしないよう厳しく指導をしたが、MLB通算226発の実績を持つ33歳のベテランには、さすがにそこまでの荒療治は難しかったという。

 なお、ディアーの獲得を強く球団に推薦した親友オマリーも、高年俸や長打力不足がネックとなりこの年限りで阪神を退団。逃した魚は大きく、翌95年はヤクルトの四番打者として、ペナントと日本シリーズのダブルMVPに輝く大活躍を見せたのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM