明るく、真面目な性格



ロッテ・荘勝雄

 1989年(平成元年)の川崎球場では、450円のジャンボお好み焼き(やきそば入り)が人気だった。

 店が三塁側にあるためホームのロッテ関係者だけでなく、ビジターの選手たちも顔を出し、日本ハムのトレンディエース西崎幸広が買いにきたという。名物のおばちゃんが作るラーメンはプラス50円でゆで卵をトッピングできた。『プロ野球ニュースで綴るプロ野球黄金時代 昭和球場物語 Part.1』付属のDVDで当時の映像を確認できるが、学食の売店のような雰囲気の中、天ぷらそばや肉そばも一律450円のお求めやすい価格設定である。

 一方で川崎球場の施設は老朽化が著しく閑古鳥が鳴き、ガラガラのスタンドで流しそうめんやキャッチボールをしてみせる観客はテレビ番組『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』でおなじみの光景だった。同じころ、福岡ではダイエーが2000億円を投入する「ツインドーム計画」を発表。開閉式のスポーツドームに加え、屋内遊園地のファンタジードームを併設する壮大なプロジェクトは、その後のバブル崩壊による資金不足で遊園地は断念したが、もしかしたら今ごろ、ヤフオクドームの隣にもうひとつのドーム施設が並んでいたかもしれない。

 そんな景気のいい新興球団ダイエーとは対照的に、当時のロッテオリオンズは不人気チームで、86年オフの三冠王男・落合博満の放出後はBクラスに低迷、優勝から長年遠ざかっていた。中堅115.8メートル、左翼89.0メートル、右翼87.3メートルという狭くホームランの出やすい投手泣かせの川崎球場で、“マサカリ投法”村田兆治とともに、ロッテの先発ローテを支えた外国人投手が荘勝雄である。

 台湾時代は代表チームのエースを託され、世界選手権では83年に5勝0敗で最優秀投手賞に輝き、84年には強豪キューバチーム相手に1失点完投勝利。ロサンゼルス五輪でも銅メダル獲得に貢献した。荘は母国の英雄で大学の体育講師を務めていたが、その安定した地位を捨て、85年に日本のロッテオリオンズへ入団。しかし、すでに26歳で身長175センチと小柄な右腕の注目度は決して高いとは言えず、西武と巨人が激しい争奪戦を繰り広げ、同時期に来日した“オリエント・エクスプレス”郭泰源(年齢は荘が3つ年上)と比較すると待遇面でも大きく劣っていた。

 なにせ、荘はいきなり埼玉県狭山市にあったロッテ合宿所で日本生活をスタートさせている。外国人選手枠扱いながら、球団から高級マンションが与えられるアメリカ人選手とは対照的に年下の日本人選手たちに混じり、専用の通訳もいないハードな環境でのプレーを余儀なくされた。当然、言葉は分からず、長い日本式練習に戸惑い、大学の先輩にあたる郭源治(中日)に電話をかけて相談したこともあった。

 それでも、荘は元来の明るい性格と日本語を猛勉強する真面目さで、ナインからすぐ“カツオ”と呼ばれ愛される。当時のロッテのバッテリーキャンプは台湾の高雄市から始まったので、外出時には自ら通訳を引き受け、2月1日の誕生日にはバースデーケーキを送られ大喜び。同室になった梅沢義勝とは松田聖子の『青い珊瑚礁』を歌って騒いだという。サインはひらがなで「そうかつお」と書いてみせた。

「二郭一荘」と称されながら……



3年連続で200イニング以上に投げるなど、チームのためにマウンドに上がり続けた

 並はずれた足腰の強さを誇る背番号15の投球スタイルは最速148キロのストレートに、1試合で相手バットを3本へし折ったこともあるというカミソリシュート、さらにはカーブ、スライダー、ナックルと多彩な変化球を操り、いきなり先発にリリーフとロッテ投手陣の中心を担う。1年目から11勝10敗4セーブ、防御率4.15の成績を残し年俸1200万円へとアップ(オールスター戦にも故障の郭泰源の代役として初出場)。2年目の86年もチーム事情から抑えを任せられると、当時のリーグ新記録となる10連続セーブをマークして、『週刊ベースボール』9月15日号の人気コーナー「小林繁の熱球トーク」に登場。日本語でインタビューを受けている。

「(西武戦で連続セーブ記録が10で止まり)悔しかったよ、ホント。でも、僕、ホントは先発やりたいのよ。来年、困るよ(笑)。先発なら、3年、5年、大丈夫と思うの。抑えだったら、来年、無理かもしれないね。やっぱり、自分の体、自分で一番、わかるでしょ」

「毎日毎日、ベンチ、入るでしょ。特にウチの抑えは、1イニングじゃないね。2回、3回ね(笑)。多いから。自分、それ、心配なのね。何年、できるかなって、すごく心配するの。特に、僕の体ね、大きくない。小さいね。僕、外人でしょ。もし、1年、ダメだったら、クビになるかもしれないね。すごく、心配するの」

 荘は自身の酷使とも言える起用法に不安を覚えていた。この年は49試合で11勝5敗18セーブ。現代野球では考えられないが、リリーフ登板して3〜4イニング投げることもあり、なんと143回で規定投球回にも到達している(リーグ3位の防御率3.15)。

 3年目以降もその投げっぷりはすさまじい。先発に戻った87年は自己最多の13勝(11敗)を挙げ、230.2回で20完投を記録。そこから3年連続200イニング以上を投げ、88年13勝14敗、89年11勝15敗と2年連続最下位に沈んだ暗黒期のチームにおいて、ひとりで勝敗を背負うエースの働きを見せる。いわば、ロッテの歴史で昭和後期の村田兆治と平成前半の小宮山悟や伊良部秀輝の間をつないだのが、荘だったわけだ。

 しかし、だ。これだけ投げて、台湾出身の「二郭一荘」と語られながらも、人気面・条件面ともにふたりの郭には大きな差をつけられていた。88年オフの契約更改では2連連続のセーブ王でMVPに輝き、星野中日のV1に貢献した郭源治がタイトル料込みで年俸1億円の大台に到達。西武黄金時代で13勝を挙げ、3年連続日本一に輝いた郭泰源も6000万円。対照的に4年連続2ケタ勝利の荘に対しては、ロッテ球団からなんと現状維持の3600万円が提示された(これにはさすがに批判も多く最終的に39パーセントアップの推定5000万円で更改)。そりゃあ90年ドラフト会議で8球団競合の末に引き当てた小池秀郎からも「絶対に行きたくない球団」なんつって入団拒否されるよ……と妙に納得してしまうロッテ経営陣のシブチンぶりである。


郭と投げ合い意地の完封勝利



千葉移転後は4年間で1勝を挙げたのみに終わった

 そんな状況でも同郷の呂明賜が巨人に入団すると「何でも困ったことがあったら、オレに電話してこいよ」と兄貴分を買って出る人の良さは相変わらずで、89年6月7日の西武球場ではライバル・郭泰源との先発直接対決が実現し、1対0の意地の完封勝利を挙げた。それでも勤続疲労から90年は右肩痛で開幕二軍スタート。この年には待望の子宝にも恵まれたが、荘は後半にはリリーフに回ったこともあり5勝14敗と大きく負け越し。デビューからの連続2ケタ勝利記録も5年で途切れてしまう。気が付けば、村田兆治の引退で、91年から投手陣最年長に。同年11月に帰化して日本国籍を取得した。なおチームは「テレビじゃ見れない川崎劇場」の自虐的な球団CMが話題となるも、首位・西武と33.5ゲーム差をつけられぶっちぎりの最下位に沈んでいる。

 荘は当時まだ32歳で老け込む年ではなかったが、ロッテが千葉移転後の92年から3シーズン勝ち星なし。4年ぶりの勝利投手となった95年限りで現役引退を表明した。実働11年、297試合70勝83敗33セーブ、防御率4.05。場当たり的な起用法に同郷の「二郭」と比べると低い評価、アメリカ経由の助っ人よりも破格に安い年俸に悩まされたが、一方でなんで俺を評価してくれないんだという反骨心が荘の原動力にもなっていたのではないだろうか。

 80年代の球界を盛り上げた台湾旋風。いまだにデビュー直後の郭泰源を史上最高の投手と称する声は多いし、100勝100セーブを達成した郭源治の人気も高い。だが、昭和の終わりから平成の始まりにかけて、あのお好み焼きの匂い漂う川崎球場でひたすら投げまくっていた、鉄腕・荘勝雄の存在も忘れないでいたい。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM