歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

キャンプ中にアキレス腱を断裂



南海・門田博光

 1979年2月16日、南海の門田博光は、キャンプ中に右足のアキレス腱を断裂した。このとき、多くは再起不能と思ったことだろう。当時のプロ野球では、アキレス腱の断裂は選手生命にとって致命的ともいえる重傷。実際、それまでアキレス腱を断裂した選手が復帰したケースは稀有で、皆無ではなかったのだが、このときの門田は、そんな選手の名前を思い出すことができなかった。のちに門田は著書の中で「一度、死んだ日」と書いているが、これは決して大袈裟な表現ではないだろう。それほどの絶望に襲われたということは想像に難くない。

 打って、守って、そして走って。プロに限らず、これが野球というスポーツである以上、そのほとんどができなくなってしまうのだから、それは野球そのものを、断念しなければならないことを意味していた。後年の長距離砲、指名打者という印象も強い門田だが、若手時代は足も速く、野村克也の存在もあって打撃はアベレージ重視。もちろん外野の守備にも就き、右翼の守備も一流だった。そんな自分自身を、これまで自分が積み上げ、積み重ねてきたものを、すべて捨て去らなければならないのだ。少なくとも、当時の門田は「死んだ」と思ったのだろう。ただ、当然ながら命までが失われたわけではなかった。活路は残されていたのだ。

 近い将来すら見えない状況は、秘められた活路も、自分自身が秘めていた夢すらも、見えにくくしてしまう。門田が自身に残された活路に気づくのにも時間が必要だった。言い換えれば、ネガティブな心境に沈みながらも、そんな長い時間が過ぎ去るのを待てば、自然と心に余裕が生まれ、その余裕が、ひらめきを呼び込む。故障したばかりのときには、アキレス腱の断裂から復帰した選手の名前が思い出せなかった門田も、時間が経つことで思い出せるようになり、その姿を自分自身にも投影できるようになってくると、ハンディキャップを抱えながら野球を続けている自分自身をイメージできるようになってくる。

 もっとも問題となるのは走ること。それも、すり足にすれば足に負担が少ないのではないか、などと考えられるようになり、それまでは守備に就くことが打撃のリズムになっていた門田だったが、75年からパ・リーグに指名打者制が導入されていたことも、足に爆弾を抱えることになった門田にはポジティブな要素となった。悪循環に陥っているときは、どういうわけか逆風ばかりが吹き続けるものだ。だが、ひとたび脱却すれば、じわじわと風向きも変わってくる。門田がたどり着いたのは、若手時代に封印していた自らの夢だった。

整った環境


「病院の先生が『ゆっくり走れるようにホームラン打ったらいいじゃないか。1打席に1球、真ん中のボールがあったらホームラン打てるんでしょ』と。『いい形とミートさえ持っていければ』と言うと、『そういう形とミートを作り上げればいいじゃないか』です。野球以外の人生哲学から野球哲学を教えられました」

 こう門田は振り返る。2年目の71年に野村の前を打つ三番打者として31本塁打を放ち、120打点で打点王。このときには、もうホームランに魅入られていた。ただ、野村に「三番は塁に出ればええ。長打はいらん」と言われて、アベレージ重視にシフトしていたのだ。身長170センチの門田は、「ホームランはヒットの延長」という考えではホームランにはならない。狙わなければホームランを打てない、ホームランだけを狙い続ける打撃にはリスクが伴うのも事実だろう。

 だが、アキレス腱を断裂したことで、出塁と走塁が打撃の安定感を欠く以上のリスクとなった以上、ホームランを狙い続ける打撃のほうがリスクは少ない。兼任監督を務めていた野村も77年シーズン中に退任し、移籍していた。逆説的だが、「死んだ」と思うほどの故障によって、自らの夢を追い求める環境が整っていたのだ。

 一軍のベンチに復帰したのは9月7日のことだった。およそ半年。長い時間のようだが、故障の深刻さを思えば短い時間だ。この間、門田が構築した新たな打撃については、また機会を改めて。

文=犬企画マンホール 写真=BBM