歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

広島に球団ができた奇跡



広島初代監督の石本秀一

 プロ野球が2リーグ制となった1950年に参加した広島カーブ。この50年はセ・リーグ8、パ・リーグ7の計15チームがひしめきあっていたが、その中でも広島は異色のチームだった。そもそも、広島県は戦前から野球が盛んな土地柄だ。中等学校野球でも広島商、広陵など強豪校を擁し、1936年にスタートしたプロ野球にも阪神に藤村富美男、南海に鶴岡一人らを輩出してきたが、プロ野球のチームは東京、大阪、名古屋などの大都市に集中。野球は盛んなのに、応援する地元のチームは存在しなかったのだ。

 その一方で、時代はプロ野球だけでなく、すべての人々にとって最悪の事態へと突き進んでいった。41年、開戦。そして、45年8月、広島市に原爆が投下された。それまで各地は空襲で大きな被害を受けていたが、広島市の被害は別次元のもの。その11月にプロ野球は復活の号砲を打ち鳴らしたが、同じころ、広島市では市議会に戦災復興委員会が設置されている。復興への歩みも別次元のものだった。プロ野球が2リーグ制に向けて動き出したのが49年オフ。各地で多くの球団が創設され、参入に名乗りを上げた。これに加わったのが広島カープだ。それまでの4年間でプロ野球チームを創設するところまで復興したこと自体、奇跡といえるだろう。

 その後も奇跡は続く。ただ、常に困難とは隣り合わせだった。当時の広島には1社で球団を支えられるほどの企業はなく、それでも「なんとしても我らの球団を」という関係者の熱意が、地元の政財界、そして県民、市民を動かしていく。そして49年12月5日、斬新な“市民球団”として、広島カープが産声をあげた。愛称は広島城の別名「鯉城」にちなんだもの。最初は「カープス」としていたが、鯉は英語では単複同形という指摘があったことで、「カープ」に修正された。

 こうした機運は、すでにプロ野球で実績を残している男たちをも突き動かしていく。広島商の監督、そしてプロ野球でも阪神の監督を務めた石本秀一が「給料はいくらでもいい」と監督に就任。巨人でプロ野球1年目からプレーして、逆シングルの名遊撃手として鳴らした白石敏夫も、「白石勝巳」と改名して馳せ参じた。ただ、県民、市民が一体となって球団をバックアップしていく、というのは画期的かつ意欲的であり、そこには夢もあり、カープは人々にとって希望の象徴ともなったが、それだけでは生き残れないのも普遍的な事実だ。特に、戦争の傷跡も完全に癒えていない時代。カープは誕生して早々、深刻な資金難に陥る。

“樽募金”と“縄ホームラン”


 迎えた1年目の50年は41勝96敗1分、勝率.299で、最下位。石本監督は「ほとんど練習に姿を見せない」と言われ、当然の結果だっただろう。ただ、石本監督にとって最優先にするべき仕事は、チームの強化ではなく、その維持、存続だった。石本監督は連日、金策に奔走。阪神から戦力を大量に引き抜いて優勝、日本一に輝いた毎日を阪神ファンがヤジっていたシーズンだ。オフには連盟から隣の山口県、下関市に拠点を置いていた大洋との合併を勧められ、ほぼ決まりかけたが、石本監督が後援会の結成に尽力したこともあって、なんとか回避。球場の前に大きな樽を置いての“樽募金”もあった。チームでは給料の遅配も頻発。それでもナインは耐え、白石も中心選手としてプレーしながら金策に駆け回った。

 だが、2年連続で最下位に沈んだ51年オフ、連盟が「勝率3割を下回った球団は解散」という規定を新設。エースの長谷川良平が自身の地元でもある名古屋(中日)に引き抜かれそうになるなど、グラウンドの内外で逆風は続いた。ただ、そんな長谷川に「絶対、カープから離れん」と決意させたのも地元ファン。53年には、4月1日の洋松戦(尾道西高グラウンド)で、外野はロープで区切られていただけだったが、白石が外野へ飛球を放つと、ファンが一斉にロープを引き下げて本塁打にしてしまったこともあった。

 ナインもファンも、みな必死だった。それを嘲笑した人もいたことだろう。だが、死に物狂いで生きようとするのは、決して恥ずかしいことではないはずだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM