歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

ユニフォームを変えた新人



新人時代の大洋・山下大輔

 この春も多くの観光客を集めてしまった湘南エリア。20世紀の昔、といっても1990年代くらいまでは、海水浴シーズンはともかく、近年ほどの混雑はなかった気がする。その90年代くらいからは「湘南」が指す地域も広範囲になった印象もあるが、もともとは大磯あたりに限られた呼称だったらしい。鉄道に詳しいわけではなく、現在のことも分からないのだが、かつて、その大磯あたりでは、大磯駅を通る東海道本線は「湘南電車」と呼ばれていた。車体はオレンジとグリーンの2色。最近はレモンのように黄色い、酸味と甘味がさわやかな湘南ゴールドも知られてきたが、古くから温州ミカンが栽培されていた地域。すこし山間へ行けば茶葉の栽培も盛んで、それらにちなんだカラーリングといわれているようだ。

 そんな湘南電車と同様に、オレンジとグリーンのユニフォームを採用してファンを驚かせたのが74年の大洋、現在の横浜DeNAベイスターズだ。ビジターではグリーンが基調だったが、ホームでオレンジがメーンとなると、そのインパクトは抜群。当時の本拠地は川崎球場で、さすがに川崎まで湘南エリアに含んでしまうのは行き過ぎであり、川崎駅にも東海道本線は走っていたことから、それに由来する色使いともいわれた。ただ、実際のところは前年のドラフト1位で、いわゆるイの一番で指名して獲得した山下大輔の入団による変更だという。

 山下の出身地は静岡県で、お茶の栽培は全国的に有名だが、温州ミカンも特産品。湘南も静岡も、ともに温暖で気候は似ており、湘南電車が由来ではないが、湘南電車と同じ由来のユニフォームだった。だが、大洋は前年の73年にユニフォームのデザインを変更したばかり。山下への期待の高さがうかがえるエピソードだが、これもあってか、当時は“プリンス”と表現されることも多かった。実家は清水市、現在の静岡市清水区にある実業家で、育ちがいいのは確か。慶大では主将を務めたが、その慶大も「お金持ちが行く学校」というイメージがあり、しかも甘いマスクの持ち主だったから、“プリンス”と呼ばれるのは自然だったのかもしれない。

 ただ、この当時、スポーツ選手はハングリーであるべきという風潮があり、この“プリンス”には多少の、いや、かなりのやっかみも含まれていた気がする。エリートに嫉妬するのも人情だが、1年目のキャンプに卒業試験のため合流が遅れ、参加した途端に発熱、チームメートへの感染を避けるためキャンプ地に近い実家で静養すると一転、“虚弱児”呼ばわりに変わった。

 のちに山下は振り返っている。

「現役時代は、それとの戦いでした」

縁の下の“プリンス”


 当時の大洋は、派手ではないものの、内野陣は名手ぞろいだった。一塁は松原誠、二塁はシピン、三塁はボイヤー、遊撃は米田慶三郎。そんな内野陣からプロの守備における間合いや呼吸を学び、1年目から遊撃手として頭角を現す。3年目の76年にレギュラー定着、遊撃手としてセ・リーグ記録を更新する守備率.988をマークして、以降8年連続ダイヤモンド・グラブ。81年にはベストナインにも選ばれているが、優勝とは無縁の大洋にあっては特筆すべきことだ。

 77年からは322連続守備機会無失策でプロ野球記録を更新した。華麗な遊撃守備も“プリンス”らしかったが、もちろん、そのためには泥にまみれた練習は不可欠。捕球から素早く送球に移ることを心がけ、速い打球をさばいたときには緩い送球、遅い打球のときには素早い送球となって、結果的に計ったように打者走者をアウトにしたように見えた。85年には二塁手、翌86年からは三塁手としても堅守を発揮。一方、打っては一番から九番まで、すべての打順を経験した。単なる“プリンス”、ましてや“虚弱児”にできる仕事ではないだろう。

 常にチームの中心にいながらも、常にチームを支え続けた名手だった。87年オフに引退を球団と相談して慰留されながら、翌88年に二軍スタートを告げられたことで開幕の前日に引退。最後まで見えづらかったが、不遇といえるラストシーンも、逆説的ながら、秘めた不屈の気概を物語っているように思える。

文=犬企画マンホール 写真=BBM