1982年編表紙

 1980年代の球界を1年1冊で振り返る好評シリーズ。本日、6月30日発売(一部は後日)は第8弾1982年編だ。

 この年の流行歌は、あみんの『待つわ』と薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』。前者は片思いの彼が恋人と別れるのをじっと待つという少し怖い歌、後者は機関銃を打ちまくる女子高生組長の映画の主題歌だった。
 2月8日にはホテルニュージャパンの火災で33人、翌9日には、逆噴射の日航機事故で24人が亡くなっている。校内暴力が社会問題化していた時代でもあり、特に中高生は決して平和な時代ではなかった。

 球界では団塊の世代の選手が世代交代の時期に入り、だからだけではないだろうが、より監督が目立った。
 セの覇者中日の近藤貞雄監督は、いつも色紙に「七転八起」と書いていたが、決して地味な苦労人ではない。
 というか、苦労はかなりされているのだが、あまり感じられない人だった。
 1試合の中で攻撃的・守備的チームを使い分けるツープラトン・システムなどを取り入れたアイデアマン。洒落っ気があり、腕を後ろに組み、審判を胸で押すようにして抗議するスタイルでも知られた。

 パでは同学年、50歳の西武・広岡達朗監督、日本ハム・大沢啓二監督がグラウンド内外で激しい舌戦を繰り広げた。
 毒舌で、ずばずば斬り込んでくるが、やや天然の広岡監督と、べらんめえ口調で頭の回転が速く、“受け身”が取れる大沢監督は、いいケンカ相手だったと言えるだろう。

 春季キャンプ、広岡新監督の名を広く知らしめたのが、「管理野球」という言葉だった。「管理」という言葉は決していい意味で使われたわけではない。禁酒、禁煙、禁麻雀、門限、食事管理、さらに厳しい基本練習、長時間のミーティング。まるで軍隊のように、とも表現された。
 ここで広岡達朗監督の「スポーツマンは肉を食べてはいけない。体が酸性になる」に対し、“日本ハム”の大沢監督の「草ばっかり食べて力が出るか。ヤギさんチームに負けてたまるか」の名言が出た。

 79年埼玉に移転したが、東尾修、大田卓司ら、九州ライオンズ時代からのDNAを感じさせる野武士的な選手も多かった西武。前任の根本陸夫は自由な雰囲気の中で選手を放任していたが、同時に、田淵幸一らスター選手を他球団から、この年であれば伊東勤、工藤公康らを独自のスカウト戦略で獲得するなど、戦力強化という面ではしたたかで、大胆不敵な男だった。
 そして、ジグソーパズルの最後のピースとばかり、根本が自身の後継者として“補強”したのが、「劇薬型監督」の広岡だった。

 広岡監督と並び、停滞したチームに毒、つまりは激しい厳しさを注入する「劇薬型監督」の典型と言われるのが、星野仙一だ。
アメとムチでチームを引っ張り何度も優勝に導いた星野だが、厳しさには慣れ、アメとなる金銭の報酬や甘言にも限りがある。なかなか効果が長続きせず、中日、阪神、楽天と連覇はない。
 一方、広岡監督はヤクルトでは78年の優勝、日本一の後、急降下したが、西武では4年の任期中、3回優勝を果たしている。

 断っておくが、どちらがいい悪いの話を書いているのではない。もっと言えば、監督の力だけで勝てるほど野球は単純ではない。

 ただ、2人には違いがある。広岡監督は劇薬ではあったが、政治家的一面もあった星野監督とは違い、鉄拳を振るうことなく、選手の金銭面、補強面にもあまり口出しした様子はない。
 選手に厳しかったが、上にも媚びず、ただただ、野球に純粋に向き合い、チームを強くすることに徹した(自身の待遇に関しては違ったが)。

 批判があった食事管理にしても、白米を玄米に、牛乳を豆乳にとなれば、むしろ時代を先取りしていたとも言える。日本ハムとのプレーオフ前に行った徹底したバント練習もそうだ。
 広岡監督はベテランにも徹底的にやらせた。「プロだからバントなんか練習しなくてもできる」と思っていた選手に「だったらやってみろ」と練習させ、できなければできるようになるまで繰り返させた。
 そして実際、プレーオフでそれを武器に相手の守護神・江夏豊を攻略し、リーグ優勝を手にする。こうなれば、選手はついていくしかない。

 何より広岡監督のすごいところは、自分が常に正しいことを言っているという自信を一点の曇りもなく持っていることだ。
 だから選手に嫌われることをまったく恐れなかった。日本社会は、みな一緒に進まなければならないという同調圧力が強いが、この人には関係ない。それは88歳となった今も、週べのコラムのタイトルに『「やれ」と言える信念』を選んだことでも分かる。

文=井口英規