歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

西鉄は大逆転V、エースの代償



西鉄・稲尾和久(左は三原監督)

 21世紀に入り、西武で背番号24が永久欠番になった。前身の西鉄で黄金時代の立役者となった稲尾和久の背番号だ。前身のチームでの活躍が時代を経て永久欠番となるのは異例のこと。稲尾が背番号を24から81へ変更したのは、西鉄が太平洋となった1973年で、「新しい球団になるのだから、古い時代は忘れてほしい。81は末広がりと、ハッピーの語呂にかけてね」、このときも永久欠番の可能性があったが、「ニューヒーローが出たらプレゼントしたい」と固辞している。若いプロ野球ファンには歴史上の人物になるのだろう。ここであらためて、ライオンズの背番号24について振り返ってみたい。

 入団は56年。挨拶に来た稲尾の投球を見た三原脩監督は、「虫の居所が悪ければ、大したことないね、無理に取ることはないよ、と言っていたかもしれない。コントロールがいいから打撃投手として使える、投手はいくらいてもいい。それくらいの軽い気持ちだった」と語っている。期待されてでの入団ではなかったが、その打撃投手として打者との駆け引き、さらに制球力を磨きながら投げ込んでいるうちに、球速が上がってくる。そして冷え込みの厳しい時期のオープン戦で結果を出し、あらためて三原監督の目に留まった。

 1年目から21勝、防御率1.06で最優秀防御率、新人王。以降3年連続の最優秀防御率、57年からは2年連続で最多勝とMVPにも輝いた。この3年間こそ、西鉄の黄金時代だ。58年の日本シリーズでは3連敗の後に4連投。第5戦では自らサヨナラ本塁打も放ち、西鉄も4連勝で3年連続日本一に。「神様、仏様、稲尾様」と言われた。61年には当時のプロ野球記録となる78試合に登板して、現在もタイ記録として残る42勝を挙げる。防御率1.69もあり、3度目の投手2冠。翌62年には中西太が監督、豊田泰光が助監督を兼任する“青年内閣”で投手コーチを兼任したが、その翌63年には投手に専念して74試合に登板、28勝を挙げて、14.5ゲーム差からの大逆転優勝に大きく貢献した。

 4度目の最多勝。だが、これが最後の最多勝となり、西鉄にとっても最後の優勝となった。秋には肩に違和感を覚え、球が本塁に届かなくなる。巨人と4度目の顔合わせとなった日本シリーズでは痛みが消え、完封勝利もあったが、西鉄は日本一に届かず。そして迎えた64年のキャンプで肩に激痛が走り、まったく投げられなくなってしまう。

強まっていく逆風


 64年のペナントレースでは6試合の登板に終わり、ゼロ勝。西鉄の黄金時代を象徴した鉄腕に突き付けられた、あまりにも大きな代償に、野球をやめようと思うほどの絶望に沈んだ。だが、そこで開き直る。逆療法で鉄球を使ったトレーニングを試すと、痛みが消えた。球威こそ戻らず、全盛期のスタミナも失われていたが、そこから投球術を駆使して復活。翌65年は38試合の登板で13勝ながら、防御率2.38はリーグ7位。さらに66年には54試合で11勝、防御率1.79は5度目の最優秀防御率だ。

「これはもう、おつりのようなものだった」と稲尾。その後も逆風は止まらなかったが、それでも投げ続けた。67年は46試合。68年は56試合に登板して、2年ぶりに規定投球回にも到達した。1勝に終わり、シーズン限りで現役を引退することになる69年さえ、32試合に登板している。勝ち星は伸びなかったが、この3年間の防御率は2点台。肩を壊している投手の数字とは信じられないほどだが、すべて事実だ。だが、それでも逆風は、むしろ強く吹き付ける。

 最後の登板は10月2日のロッテ戦(東京)。その6日後に発覚したのが“黒い霧事件”だった。これで中西監督が辞任、その後任の監督に就任したものの、事件は拡大の一途。ボロボロになっていく西鉄を復活させることは不可能だった。70年から3年連続で最下位に沈み、西鉄は太平洋に。稲尾は74年まで指揮を執った。西鉄が九州を離れたのは78年オフ。「もう一度、福岡にプロ球団を呼びたい」と活動を続けていた稲尾は、ダイエーが89年に移転してきたとき、ようやく背負ってきた荷物を下ろせた気がしたという。

文=犬企画マンホール 写真=BBM