ウインタースと四・五番コンビ



日本ハム・シュー

 秋山幸二と栗山巧。

 先日、ライオンズ70周年記念グッズのボブルヘッドセットを球団公式通販で購入した。背番号1つながりで80年代に“メジャーに最も近い男”と称された秋山と現代のチームリーダー栗山のセットだ。「この秋山、痩せてるタブチにしか見えねぇ……」という細部の突っ込みどころはあるものの素晴らしい企画だと思う。

 西武黄金時代を支えた秋山幸二は本当にすごかった。張本勲に次ぐ史上2人目の400本塁打・300盗塁達成。王貞治の19年連続に次ぐ歴代2位の9年連続30本塁打以上。福本豊の12度に次ぐ歴代2位タイの11度のゴールデン・グラブ賞を受賞(87年から96年まで10年連続)。28歳で迎えた90年には35本塁打・51盗塁を記録。この「30本・50盗塁」達成者はNPBで秋山のみの偉業だ。野球少年からの人気は高く、SFCソフト『スーパーファミスタ2』ではホームランを打ってホームイン時にLRボタンを押すと、秋山の代名詞バク宙ホームインの再現ムーブができた。そんな背番号1は93年オフの電撃トレードでダイエーホークスへ去ったが、翌94年限りで森祇晶監督も辞任。西武黄金期は終わりを告げる。

 その秋山のライオンズ在籍最終年となる93年、チームはリーグV4を達成するが、ギリギリまで王者を追い詰めた球団があった。大沢啓二監督率いる日本ハムファイターズである。8月に一時首位に立つも、最後は首位・西武にわずかに及ばず2位。べらんめえ口調の大沢親分の「親分」は93年流行語大賞の大衆語部門金賞に輝くインパクトを残した(ちなみに当時61歳の大沢親分が現在62歳の巨人・原辰徳監督より若いことに驚く)。その大きな注目を集めたチームで、マット・ウインタースとともに中軸を担ったのが、新外国人選手のリック・シューである。

 ハッスルプレーが売りのガッツマンはファン受けもよく、アメリカの3Aポートランド時代には最も人気のあるプレーヤーに選ばれたが、大リーグ通算成績は8年間で579試合、打率.247、41本塁打、134打点という控え野手だったこともあり31歳で日本行きを決断。
 初の春季キャンプでは一塁にヘッドスライディングで飛び込むガッツをアピールするも、評論家からの評価は低かった。その一見非力な打撃が心配されたが、ケリー夫人と2歳の長男ジェイク君が来日した直後に行われた開幕前のパ・リーグトーナメントのロッテ戦、広い福岡ドーム(もちろんまだホームランテラスはなかった)で2本のアーチを放ち、周囲を驚かせる。勢いそのままに日本ハムは開幕ダッシュを成功させ、球団史上23年ぶりの4月単独首位で乗り切るが、チームを牽引したのは打率.321、7本塁打、18打点で4月月間MVPに輝いたシューだった。

 左のウインタースと右のシューで組む四・五番コンビは他球団の脅威となり、「五番・一塁」でヒゲ面の背番号9には大沢親分も「シューさんはいいね。ここで点が欲しいというところで打ってくれるもんな。守りもいいし、そこそこやるとは思っていたが正直いって、ここまでやるとは思っておらんかった。ガッツもあるよ」なんつって絶賛。自分のスタイルを誇示するのではなく、自分のほうから日本の野球スタイルに合わせていく助っ人。4月中旬に自身のエラーが失点のきっかけになった試合後、ロッカールームでエース西崎幸広に近づいて「ニシザキ、すまなかった……」と謝罪、謝られた西崎は驚きの表情で「いいんだ。あとで打たれた僕が悪い」と返したが、シューの真摯さはチームメートにも受け入れられた。

“ミスター・キューシュー”



スポーツ・バーに飾られたウインタースのユニフォームに指をさす

『週刊ベースボール』93年6月21日号のマーティ・キーナートによる独占インタビューでは、来日前からレオン・リーやマイク・ディアズに日本球界の事情を聞いていたので、アメリカより多い練習量にも驚くことは少なかったとシューは答えている。なお近鉄のラルフ・ブライアントとは、83年にコロンビアのウインター・リーグで同じチームでプレーしたこともあったという。打撃好調のシューは、ご機嫌に日本生活や日本球界の印象を語っている。

「一番驚いたのは、遠征に出掛けて、宿泊先のホテルを出るとき、ユニフォームに着替えてから球場へ行くこと(笑)。大リーグでは、ユニフォームに着替えるのは球場のクラブハウスに決まっている。そこはランドリーをはじめとして、何から何まで備えつけられているからね」 

「(対戦して印象に残ったのは)近鉄の野茂投手。苦手というか、もう完璧に振りまわされてしまっている。日本の奪三振王といわれるだけあって、彼のスピード・ボールはやっぱりすごい。敵ながら、見ていて気持ちよくなるくらいだ。ボールがホップして、まるで20フィート(約6メートル)の距離から投げてくるみたいに感じるよ」

「投手はマット(ウンタース)を歩かせ、ボクで勝負してくるから、塁上にランナーを置いたいい場面で打席に立てるんだ。日本のピッチャーは、マットのように常にホームランの脅威を抱かせるバッターには、一発が怖いからボールぎみのタマしか投げない。ボクのような右方向への流し打ちタイプの打者のほうが、あまり脅威を感じないのかもしれないね」

 なおコンビを組むウインタースは王者・西武と優勝争いを繰り広げるチーム好調の要因を、「第一にオーサワカントク、第二は同僚シューの力が大きいと思う」と週べ93年9月13日号のインタビューで挙げている。

「リック(シュー)はホントにナイスガイだし、球場での態度が素晴らしくいい。昨年いた人(マイク・マーシャルのこと?)とは、違うと思うよ」

 なんて唐突に昔の同僚をディスりだすウインタースだが、シューとのコンビで7月9日からの近鉄戦で3日連続アベックアーチを記録。17日にもダイエー戦で月4度目の一発競演のWS砲だったが、シューのシーズン5本目の広い福岡ドームでの本塁打に、ナインから背番号9と名前をもじって、“ミスター・キューシュー(九州)”というなんだかよく分からないニックネームもつけられた。チームは首位・西武に3ゲーム差で前半戦を折り返すと、後半戦も激しく追い上げ、8月22日には東京ドームで西武に3連勝。ゲーム差0.5に詰め寄ると、24日には近鉄に勝利してついに首位に立った。

 大沢親分も「西武の野球はつまらん。プロ野球は勝ちゃいいってわけじゃないだろ。なんであんなにバントばかりするのか分からん。今の俺は鬼退治に出かける桃太郎の気分だよ」とマスコミを使って森西武を挑発。これは注目度が低い当時のパ・リーグに、西武対日ハムの因縁アングルを持ち込むことで盛り上げようとする大沢流の演出でもあった。しかし、相手は最強西武。9月10日からの西武球場での天王山で負け越すと、最後は71勝52敗7分けとわずか1ゲーム差で涙をのむ。

「監督は楽しそうに歌っていたよ」



来日1年目は好成績を残すも2年目は結果を残せずに退団

 シューの最終成績は128試合、打率.270、24本塁打、79打点、OPS.847。35本塁打のウインタースとのコンビは、サッカーJリーグ開幕で人気低迷が囁かれた93年のプロ野球界を大いに盛り上げてくれた。だが、翌94年の日本ハムは故障者が続出すると一転して最下位に沈み、責任を取りユニフォームを脱ぐことを決めた大沢監督が、本拠地最終戦でマウンド付近からファンに向けて土下座で詫びた。シューも打率.244、14本塁打、45打点と低迷。シーズン5盗塁ながら10度の盗塁失敗と謎のアグレッシブさは健在だったが、その年限りで退団する。

 結果的に2年の在籍に終わったものの、グラウンド上の相棒やボスにも恵まれ、数字以上のインパクトを残した人気助っ人選手だった。前述の週べインタビューで、シューは日本生活における大沢親分とのこんな意外な思い出も語っている。

「この間、休みの日に、大沢夫妻に食事に誘われたんだ。ボクの家族といっしょに、鉄板焼きを食べに行ったよ。それにカ・ラ・オ・ケ。だけど、ボクはああいうの苦手なんだ(笑)。監督は楽しそうに歌っていたよ」

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM