一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

背番号もハワイ時代に戻す



70年、背番号61番のコーチ時代の与那嶺。左は谷沢健一

 今回は『1971年11月15日号』。定価は90円。

 中日・水原茂監督の退団が10月19日に正式決定。翌20日午前10時に中日新聞本社で大島一郎、小山竜三両社主と三浦秀文社長、小山武夫球団社長が顔をそろえ、後任監督を話し合い、与那嶺要コーチの昇格が決まった。
 与那嶺は1951年途中、巨人に入団したハワイ出身の日系二世。果敢な走塁で日本野球に革命をもたらし、バットではチームメートの川上哲治と幾度となく首位打者争いを演じた(与那嶺は3度首位打者獲得)。
 60年限りで中日へ。61年から監督になる川上が追い出した、とも言われた。真偽はともかく、与那嶺が以後、「打倒巨人」に闘志を燃やしたことは間違いない。
 引退後は中日、ロッテのコーチを務め、70年から中日に復帰していた。
 のちの話だが、与那嶺は、自分の日本語はたどたどしいので、これだけの実績があっても解説の仕事は無理だと分かっていた。だからこそ、コーチの仕事にこだわったという。

 中日は水原の退任を受け、鶴岡一人、牧野茂に非公式ながら打診したが、いずれも断られ、与那嶺と二軍の本多逸郎コーチとの二択になって与那嶺が選ばれたようだ。
 与那嶺は監督就任の条件として、ロッテのコーチをしていた近藤貞雄の復帰を挙げ、認められた。

 ウォーリー(与那嶺)は前年の秋季キャンプから中日に招かれ、水原から秋季キャンプの全権を任された。このときは、まさに監督のように厳しくチームを引っ張ったが、シーズンに入ると、ほとんど意見を出さず。これは、
「ゲームになれば監督がすべて。コーチが自分の領域を越えることはできない」
 という考え方だった。

 与那嶺は就任後、背番号を64から37に変更した。これはハワイのホノルルハイスクール時代でフットボールをしてきたときのものだという。
 言葉の問題もあり、意思疎通に事欠くのではという声にはこう答えた。
「ボク、完全な日本人よ。日本選手の考え方、日本の野球を知ろうと20年も勉強してきたのだよ。心配ないね」
 と話していた。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM