歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

半世紀も広島で試合がなかった1日



1984年、広島の20世紀最後の日本一

 今日、8月6日が広島の町にとって、どんな意味を持つ日なのか、ここであらためて触れるまでもないだろう。広島カープが異例の市民球団として誕生したことについては、この連載でも紹介している。あの1945年に続いてペナントレースがないシーズンになる恐れもあった2020年だが、その2020年までの核兵器の廃絶と平和を祈念して、広島市民球場のラストイヤーとなった2008年に、8月26日のナイターが“折りづるナイター”と銘打って開催され、これを機に夏の広島でのナイターが“ピースナイター”として定着。そして11年、マツダスタジアムとなったカープの本拠地で53年ぶりに、8月6日に試合が開催された。

 つまり、半世紀を超える時間、8月6日は広島ではプロ野球の試合がない日だったのだ。これは8月6日が広島市の条例で平和記念日として休日に定められていることで広島市民球場を使えなかったためだが、この日が広島市の平和記念日に制定されたことも、あの日にさかのぼる。歴史には節目こそあれ、断絶はないのだ。もちろん、広島の町と歩みをそろえてきたカープも、その歴史の流れと切り離すことはできない。

 残念ながら核兵器の廃絶は実現できていないが、カープは21世紀に入りリーグ3連覇を達成。四半世紀ぶりの歓喜に広島の町は沸いた。その前の優勝は20世紀の1991年。山本浩二監督が率いて、病に倒れた“炎のストッパー”津田恒実のためにチームが一丸となっての優勝も、なんともカープらしい劇的なものだった。このときは5年ぶりのリーグ制覇。5年前の86年は、阿南準郎監督の就任1年目、山本浩の現役ラストイヤーでもあった。胴上げ投手となったのが津田。やはり黄金時代にあった西武との日本シリーズは、初めて全8試合で日本一の座を競い、山本浩の引退を日本一で飾ることはできなかったが、晴れ晴れとした山本浩の涙も印象的なシリーズだった。

 その2年前の84年は、不振に苦しんだ山本浩を、ともに“YK砲”を形成した“鉄人”衣笠祥雄がプロ20年目にして初の打率3割を突破して完璧にフォロー。“赤ヘルの若大将”小早川毅彦も新人王に輝く活躍で、山本浩も中盤から復調して優勝につなげた。シーズンを通してチームを支え続けたのは“投手王国”だ。北別府学、大野豊、山根和夫、川口和久らが先発で安定し、小林誠二がリリーフでフル回転。日本シリーズでは背番号0の長嶋清幸が10打点と勝負強さを発揮し、阪急に9年ぶりの雪辱を果たす。20世紀で最後の日本一だった。

完敗で幕を開けた市民球場の歴史


 カープは初の日本一に輝いた79年から2年連続でプロ野球の頂点に。黄金時代のピークといえる2年間だった。シーズン途中に古葉竹識監督が就任した75年がカープの創設26年目で迎えた初優勝。ユニフォームのメーンに赤を据えた最初のシーズンでもある。日本シリーズは疲労や達成感もあって阪急に苦杯を喫したものの、山本浩らナインは夏場には点滴を打ちながら初めての歓喜へと突き進んでいった。同姓で同じく広島の出身でもある山本一義はラストイヤー。入団は61年だったが、まだ当時はカープがBクラスの常連で、優勝と無縁どころか、勝利すら遠い印象もあった時代だった。

 2リーグ制となった50年にプロ野球へ参加したカープの樽募金や縄ホームランなどの苦難の歴史についても、すでに紹介している。ただ、深刻な低迷や解散の危機も問題には違いないが、それ以前を経験している広島の人々は強かった。

 57年に広島市民球場が完成。球場開きは阪神との試合だったが、広島は1対15で完敗している。これも勲章だろう。通算197勝を残した“小さな大エース”長谷川良平にとっては、この市民球場がビハインドとなる皮肉も。「ライト方向に風が吹き、左打者には有利になるんで、僕には違和感があった。2、3年、完成が遅れていたら200勝はできたかもしれないですね」(長谷川)とも振り返るが、身長167センチの小柄で投げ続ける姿は、カープの不屈を象徴するようでもあった。

 あれから75年。プロ野球に限らず、歴史を語り継いでいくのは、カープや広島の人々だけの役割ではないはずだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM