歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

本塁打と打点は自己最多



中日・大島康徳

 高度経済成長期、そして巨人のV9時代。実力もさることながら、圧倒的な人気と存在感を誇ったのが王貞治、長嶋茂雄の“ON砲”だ。もちろん打撃は超一流だったが、王が一塁手として堅守を見せると、長嶋は三塁手としてエキサイティングなプレーでファンを沸かせる。そんな2人に、当時の野球少年たちは魅せられ、あこがれ、その背中を追いかけた。この2人に続いたプロ野球選手たちの多くは、少し時間をさかのぼれば、そんな野球少年だったのだ。中日の大島康徳が目標にしていたのも、この2人だった。

 プロ8年目に初めて規定打席に到達、当時の最年長39歳10カ月で通算2000安打を達成するなど、遅咲きの長距離砲として知られる大島。ただ、野球との出会いはプロ野球選手としては格段に遅い。中学までの夢はバレーボールで金メダルを獲ることだったという。中津工高で野球を始めて、その3年後にはプロ野球選手になっているのだから、運命とは分からないものだ。

 ただ、パンチ力には定評があったものの、問題は安定感。先発メンバーに抜擢されると低迷し、代打に回って「そろそろファーム落ちかとなるとポンと(本塁打が)出るんです」(大島)という日々が続き、シーズン代打7本塁打のプロ野球新記録も樹立した。最初は三塁手としてレギュラーに定着。すでに同じ右打者の長嶋は引退していた。このころに、2歳離れた兄を亡くしている。その悲しみが、あらためて自分を見つめる契機とったという。バットを振る量を増やし、基礎練習を徹底するようになって、「そんなに技術は変わらない。何かが蓄積されたのかな」(大島)。初の規定打席で打率.333と、いつしか課題だった安定感も手に入れていた。

 現役26年の大島にとって、最初のキャリアハイといえるのがプロ11年目、29歳を迎える1979年だった。チームメートでアキレス腱の故障に苦しんだ谷沢健一については紹介したが、この79年は谷沢が離脱していたシーズン。大島は四番打者として才能を爆発させる。ギャレットの加入もあって、守備位置も三塁から一塁へとコンバート。初めて全試合に出場してリーグ最多の159安打を放った。タイトルこそなかったが、打撃3部門でも大台を突破。打率.317はリーグ3位、36本塁打と103打点は自己最多だった。中日も前年の5位から、3位とAクラスに浮上。大島の貢献度は大きい。だが、大島はベストナインには選ばれなかった。

「王さんは雲の上の人」


 真価を発揮した大島に立ちはだかったのが、あこがれの王だった。2年連続で三冠王に輝き、すでに通算本塁打で世界の頂点に立っている王だが、この79年は打率.285、33本塁打、81打点と、打撃3部門では大島の後塵を拝している。巨人は前年の2位から5位に転落した。それでも一塁のベストナインに選ばれたのは王。これで王は18年連続ベストナイン。「一塁のベストナインは王」という印象があったのか、あるいは過去の実績も79年の印象に対してプラスに働いたのか。

 王のラストイヤーなら“同情票”のようなものが集まったとも考えられるが、王の引退は翌80年であり、それは違う。いずれにしても、大島はバットで王の“聖域”を破ることはできなかったが、「王さんは雲の上の人。悔しくないよ」(大島)とキッパリ。口癖の「負くっか!」は地元の大分弁で「負けるか!」の意味だという。この“負くっか魂”は、禍根を残さず、すがすがしさを残した。

 ちなみに、翌80年に大島は三塁へ戻り、一塁のベストナインに選ばれたのは、復活して首位打者に輝いた谷沢。その後、大島は外野へ回ったが、本塁打王に輝いた83年にもベストナインに漏れ、最後まで無縁のままだった。

 ただ、奇縁は続いた。21世紀に入り、大島は王と第1回WBCで打撃コーチと監督の関係になる。イチローを三番で起用することを王監督に進言したのが大島だった。チームを優勝に導き、野球で金メダルを手にした大島は、「頑張っていれば夢はかなう」と実感したという。

文=犬企画マンホール 写真=BBM