歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

前例のない強行スケジュール



ナックルが武器だった阪神・バッキー

 若い人にはピンと来ないかもしれないが、20世紀の昔、この10月10日は曜日に関係なく体育の日だった。食欲の秋、読書の秋もさることながら、やはりスポーツの秋。だから秋で、ゾロ目の10月10日が体育の日になったわけではなく、1964年に開催された東京オリンピックの開会式が行われたことで、体育の日として国民の祝日に制定されたものだそう。

 この2020年の東京オリンピックは来たる2021年に延期されたが、もちろん前回は予定どおりの開催。その予定のためにプロ野球も異例の日程を組んだ。近年のように地球温暖化など概念すら存在せず、ドーム球場など皆無だった時代ながら、オリンピックが始まる前にシーズンを終わらせるべく、両リーグともに3月の中旬に開幕。例年より1カ月ほど早いスタートで、それでも前年と同様セ・リーグは140試合、パ・リーグは150試合を戦った。

 セ・リーグのエポックは、なんといっても巨人の王貞治が放ったシーズン55本塁打のプロ野球新記録だろう。この数字は20世紀の間は更新されることなく、プロ野球の頂点に立ち続けた。プロ6年目の王は3年連続の本塁打王。前年の40本塁打を大きく上回り、“一本足打法”からの本塁打は、この時代のプロ野球を象徴するシーンとなっていく。

 一方のパ・リーグからは、7月にドラフト制度の導入が提案され、9月にはアメリカに留学していた南海の村上雅則がジャイアンツと契約、メジャーで勝利投手となって話題を呼んだ。ほとんどの人が初めての東京オリンピックに期待した1年だったはずだが、プロ野球も負けじと盛り上がっていたのだ。それだけではない。オリンピックが開催される首都の東京に向こうを張るように勢いがあったのは、両リーグの在阪チーム。しかも、そのチームを引っ張ったのは、青い目の“助っ投”だった。

 セ・リーグは、やはり阪神だ。これまで見たこともないようなペースで本塁打を量産する巨人を圧倒。初優勝の60年から隔年で優勝に近づいていた大洋(現在のDeNA)とデッドヒートを繰り広げ、1ゲーム差で2年ぶりの王座に就く。その立役者がバッキーだ。29勝、防御率1.89で最多勝、最優秀防御率の投手2冠。MVPこそプロ野球新記録の王に譲ったものの、外国人の投手として初めて沢村賞に選ばれている。

 バッキーは米マイナーから62年8月にテストを受けて阪神へ。日本の野球を上から見下ろすようなタイプではなく、とにかくハングリー。武器のナックルは、「行き先はボールに聞いてくれ」とバッキー自身が言うように、とにかくコントロールが悪かったが、それでも「コントロールは小山(小山正明)サン、ファイティング・スピリッツは村山(村山実)さんに学んだ」(バッキー)と、チームの先輩を参考に安定感を身に着けて、それらが実を結んだ1年となった。

初めてだらけの日本シリーズ



南海を支えたスタンカ

 パ・リーグは南海(現在のソフトバンク)。50年代に築いた黄金時代は遠ざかりつつあったが、60年に来日したスタンカが無冠ながら26勝、防御率2.40で外国人選手としては初めてのMVPに。ちなみに、その南海に最後まで食らいついたのも在阪チームで、低迷から一気に躍進した阪急(現在のオリックス)だった。

 優勝が決まるや否や、両チームは日本シリーズに突入。日本シリーズ初のナイター開催で、在阪チームの顔合わせも初めてだったが、強行スケジュールの1年にあって、全国的な盛り上がりには欠けたものの、長距離の移動という負荷がなくなるのは天の配剤だったのかもしれない。そして両チーム3勝3敗、決戦の行方は第7戦(甲子園)にもつれこんだ。

 阪神は村山、一方の南海は前日の第6戦(甲子園)でバッキーと投げ合い完封していたスタンカが先発。「連投には驚いたが、鶴岡一人監督の期待に応えたかった」と、スタンカは前日の力投とは別人のようなテクニックを駆使した投球を見せて、阪神にスキを与えない。南海は4回表までに3点をリード。阪神もリリーフながらバッキーを連投させ、バッキーも粘りの投球で4イニングを無失点に抑えたが、時すでに遅し。スタンカが日本シリーズで初めての2日連続、2試合連続の完封で南海が日本一に輝いた。

 ちなみに、この第7戦が行われたのが10月10日。さすがにオリンピック開会式の熱気には勝てなかったようで、この第7戦は日本一が決まる甲子園球場が舞台だったにもかかわらず観客は1万5172人と、スタンドはまばらだった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM