一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

聞いてみたかった2人の打撃談議



南海・門田。当時は背番号27

 今回は『1972年2月14日号』。定価は90円。

 パで1948年生まれの2人の若き三番打者が話題となっていた。
 まずは、1971年、プロ2年目で三番に座り、初の規定打席到達とともに打率3割、さらに打点王となった南海・門田博光。
 クラレ時代、69年秋のドラフトで阪急に12位で指名されたが拒否。プロに行きたい気持ちはあったが、野球部の奥田監督が1年目ということもあり、断念したという。
 翌年は南海が2位指名。今度は奥田監督の後押しもあって入団した。

 阪急・加藤秀司は逆だ(学年は門田より下)。67年のドラフト会議で南海の10位指名を拒否し、翌68年のドラフトで阪急に2位指名され、入団。
 71年は門田同様、レギュラー定着とともに三番に抜てきされ、リーグ2位の打率.321をマークした。
 拒否したことで、門田は阪急戦、加藤は南海戦で相手からヤジられることが多かったという。

 門田の持ち味はフルスイング。コーチからは「あんなに力を入れんでもいいと言われた」が、やはり長打へのこだわりがあった。
「自分には残念なことが一つある。力だけは負けないつもりだが、身長171センチしかないのが口惜しい。楽に、軽々とホームランを打つためには、上背に恵まれ、遠心力を生かす長いリーチも必要と思う」
 と、この号の手記で書いている。
 また、加藤については「ライバルとは思わない」ということだったが、生前、上田利治さんにインタビューしたとき聞いた話を紹介しておく。上田さんは、のちの監督で、この時点はまだコーチだから、少し後の話だろう。
「難波で雨が降ったとき、うちの加藤と門田がバッティング談議を始めたんです。『俺はこう思う、お前のとは違う。呼吸の仕方も違う』と専門的にやり合った。
 その映像をフジテレビで流れて、こんな大事なときに敵と味方が話をするのはおかしいという趣旨の放送になった。関西テレビに『おいなんちゅうことや。2人で一生懸命、お互いがうまくなろうと思っている。こんないい話ないぞ。勝ってもあんたんとこの取材は受けんぞ』と言ってね」
 実際、そのシーズン、局のインタビューは一切、受けなかったという。
 上田さんは「2人が必死でやり合ったこと自体、珍しいことでした」とも言っていた。

 では、またあした。

<次回に続く>