1994年に常勝・西武を率いていた森祗晶が勇退。かつてのエースだった東尾修がその後を受け継いだが、監督が変わったことで大きく成績が落ちるのではという声もあった。しかし、そうした不安を打ち払うように、東尾西武は毎年のようにリーグ優勝を争う強さを発揮。その強さの要となったのが高木大成だ。今回は、高いユーティリティー性とシュアなバッティングで西武を支えた高木大成の活躍を紹介する。

西武を逆指名して入団



“プリンス・オブ・レオ”と呼ばれた高木

 桐蔭学園高で主力として活躍した高木は、高校選抜メンバーにも選出。チームのキャプテンとしてアメリカ遠征も経験した(当時の選抜メンバーには松井秀喜や礒部公一、三沢興一もいた)。高校最高の捕手という評価を受けていた高木はプロ注目の存在だったが、大学進学のために指名を辞退。慶大に進学することとなった。

 慶大でも持ち前の打撃力をいかんなく発揮した高木は、大学通算95試合で打率.286、13本塁打、61打点をマーク。高校3年時と同様にプロから大きな注目を集めた高木は、1995年ドラフトで西武を「逆指名」。12月に西武と正式契約を結び、球団では清原和博以来となる「単独での入団会見」を行っている。「成せば成る」と自ら書いた色紙を手に、決意表明をした場面を覚えている西武ファンも多いだろう。

打撃力を生かすために一塁へコンバート


「打てる捕手」として大きく期待された高木だが、大きな壁が立ち塞がる。当時不動のレギュラー捕手だった伊東勤だ。ルーキーが球界最高レベルの捕手からポジションを奪うのは当然ながら難しかった。それでも伊東を上回る打撃力が評価され、1年目から16試合でスタメンマスクを任された。それだけ高木に懸ける期待は大きかった。

 とはいえ、捕手としては伊東を外すわけにはいかず、高木の打力も惜しい。そこで、3年目の1998年は開幕から指名打者で起用された。その後、守備に難のあるドミンゴ・マルティネスを指名打者にすることになり、東尾監督が高木に一塁へのコンバートを打診。チームは外野へのコンバートも考えていたが、守備負担の少ない一塁にすることで、より打力を発揮してもらおうと考えたのだ。

 悩んだ末にコンバートを受け入れた高木は、シーズン途中から一塁手として定着。打撃も上向き、シーズンを通して主に三番を担うこととなった。結果的にこの年は130試合に出場して打率.295、7本塁打、64打点をマーク。一時は四番も任され、最大10ゲーム差を逆転しての劇的なリーグ制覇に貢献した。

ケガをきっかけにさまざまなポジションに挑戦


 コンバートをきっかけに大きな飛躍を遂げた高木は、1998年も主に一塁手として134試合に出場。打順も引き続き三番を担当し、打率は.276と低下したが、本塁打では17本とパワーを発揮した。この年も西武はリーグ優勝を果たしたが、高木の存在なしでは連覇は難しかっただろう。

 さらなる活躍が期待された1999年、高木を悲劇が襲う。高木は1998年オフに右ヒジ遊離軟骨の除去手術を行っており、この年は二軍からのスタートだったが、なんと春季キャンプで右足首の靱帯を断裂してしまう。当初はシーズン中盤に復帰できるかどうかという話だったが、3月半ばにリハビリを開始すると、驚異的な回復力で4月27日に出場選手登録。そこからなんと110試合に出場したのだ。

 しかし、この靱帯断裂の影響は大きく、これ以降、高木はさまざまな故障に見舞われ、徐々に調子は下降。2000年には生き残りを懸けて外野に挑戦するも、これまでのような不動のレギュラーにはなれず、2002年には出場数が36試合まで減少してしまう。それでもチームは高木の打力を期待し、層の薄いポジションで起用できないか画策。その結果、高木はサードやセカンドにも挑戦することになった。

 試行錯誤が功を奏したのか、2003年シーズンは三番で起用される機会が増え、56試合で6本塁打をマーク。ところが、翌2004年はさらなる復活を期して行った右腕の手術からの回復が遅れ一軍出場はなし。2005年もわずか13試合の出場に終わったことで現役を引退。9年のキャリアに終止符を打った。

 現役引退後は西武の親会社であるコクド、西武球団職員、プリンスホテルのマーケティングマネージャーを経て、2018年に再び西武に復帰。現在は西武職員としてだけでなく、西武の試合では解説も担当。現役さながらのユーティリティーさでチームを支えている。

 1990年代半ばの西武は監督が交代するだけでなく、清原という大黒柱も失った。それでもリーグを何度も制する強さを発揮できたのは、思い切ってコンバートを受け入れ、力強い打撃でチームを支えた高木がいたからこそだろう。

文=中田ボンベ@dcp 写真=BBM