歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

王が“一本足”デビュー



川崎球場の全景

 20世紀を知る人で、テレビ中継の黄金期を過ごしたファンには、川崎球場には薄暗いイメージがあるのではないだろうか。この連載でも大洋(現在のDeNA)やロッテの歴史を振り返った際に紹介してきた川崎球場が完成したのが1952年。ナイター設備が整ったのはプロ野球の本拠地としては6番目に早い54年6月で、“聖地”後楽園球場が2000ルクスだった時代、初期照度3400ルクスの明るさを誇り、選手たちにも「後楽園より明るい」と好評を博していた球場だった。

 ただ、時代は高度経済成長期に突入し、その流れは着実に加速していく。川崎球場は、そんな時代の流れに取り残されたボールパークだったのかもしれない。アクセスの悪いことも手伝って、バードウォッチャーでなくとも観客が数えられる“閑古鳥”球場となっていったが、その一方で、とにかくドラマの多い“川崎劇場”でもあった。

 最初に本拠地としたのは3年で歴史に幕を下ろした高橋ユニオンズだったが、1年で大洋の本拠地に。これが55年のことだ。60年には大洋が初優勝、日本一になったが、優勝が決まったのは甲子園、日本一は後楽園だった。最初のドラマは62年7月1日、大洋が巨人を迎え撃った試合ではなかったか。プロ3年目、なかなか結果が出なかった王貞治が、密かに特訓を積んでいた“一本足打法”を初めて披露。第2打席で先制のソロを放ち、そこから本塁打で世界の頂点へと登りつめていった。このときの王の打順は一番。まだ長打を期待される打者ではなかった。

 川崎球場の試合がエポックとなったのは、これだけではない。不幸な出来事ではあったが、77年に阪神の佐野仙好が外野守備でフェンスに激突して、頭蓋骨を骨折する重傷。これも過去の内容に詳しいが、この事故を契機に、球場のフェンスにラバーを張る動きが始まっている。ただ、その77年は川崎球場にとっては大きな過渡期でもあった。隣接する横浜市に横浜スタジアムが完成したのは78年のことだが、改築の計画が明らかになったのは76年9月。翌10月には横浜市議会が大洋の誘致を決めると、それを大洋も受け入れる姿勢を示す。川崎市、そして市民団体も動き、川崎の街角には悲しげな表情をした少年のポスターが貼られた。

「行かないで大洋ホエールズ エントツだけのまちにしないで」

 公害が社会問題となっていた時代に、工場の町という印象が強かった川崎。ポスターの叫びは切実だったが、77年8月には大洋が横浜への移転を正式に表明。県営宮城球場を準フランチャイズとするのみで、正式な本拠地のないロッテを誘致する方向に舵を切ったのものの、そのロッテが横浜スタジアムを本拠地に希望したことで、事態は混沌としていく。

ドラマは続いたが……


 このときは川崎市がロッテに有利な条件を提示したことで、ロッテの誘致に成功した。その後も“川崎劇場”は続く。

 80年にはロッテ移籍1年目の張本勲がプロ野球で初めて通算3000安打に到達。85年、村田兆治がヒジの手術から復帰して初勝利を挙げた物語については機会を改めるが、88年、近鉄の悲劇“10.19”も舞台は川崎球場だ。ただ、セ・リーグに比べて圧倒的にパ・リーグの人気がなかった時期でもあり、観客動員は頭打ち。その打開策として、91年には15億円をかけてグラウンドの全面に人工芝を敷設、スコアボードも電光式にして、さらには4億6500万円をかけて「テレビじゃ見れない川崎球場」というキャッチコピーで宣伝をかけたが、その自虐的なフレーズこそ話題を集めたものの、観客を集めるまでには至らなかった。

 7月にはロッテが千葉への移転を表明。このときは、大きな反対運動が起こることはなかった。10月17日のダイエー戦ダブルヘッダー第2試合が本拠地としての最終戦。雨天中止が多かった川崎球場らしく、この試合も7回表を終えた時点で雨天コールドとなり、ロッテに勝ち星をもたらした。この日は2万5000人の観客が集まり、この日の第1試合でロッテは初めてシーズン観客動員数100万人を突破している。

 ちなみに、翌92年にロッテは近鉄と2試合を川崎球場で開催しているが、これが最後の公式戦に。老朽化による閉鎖が発表された2000年の3月に、川崎球場を巣立ち、大洋から名称を変更した横浜ベイスターズと、同じく千葉ロッテマリーンズがオープン戦を開催。これがプロ野球の試合が行われた最後だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM