初優勝、リーグ連覇を呼んだ“赤鬼”



近鉄で背番号「4」を着け、リーグ連覇に導く打棒を発揮したマニエル

 プロ野球の草創期から読みの問題で避けられることが多かった「4」。ただ、あくまでも日本語の読みであって、もちろん日本語が母国語ではない助っ人の選手には関係ないことだ。それどころか、メジャーで「4」は名誉あるナンバー。プロ野球で初めて永久欠番になった巨人の「4」を紹介した際にも触れたが、ヤンキースのルー・ゲーリッグが一貫して背負っていた背番号で、「4」を着けたがる選手は多いという。双方の利害が一致して(?)、プロ野球の歴史では古くから「4」の助っ人は多い。一方で、高校野球では「4」は二塁手の背番号。プロ野球でも「4」の名二塁手は散見される。助っ人の名誉と二塁手の象徴。これが同居しているのが近鉄の系譜だ。

 2リーグ分立の1950年に始まった近鉄の歴史。やはり最初は欠番だった。4年目の53年に初めて着けたのが右腕のカスパラビッチで、来日1年目は26試合に登板して防御率2.88も、白星は6勝のみ。2年目は勝ち星なく退団した。ふたたび欠番となった「4」だが、その55年8月に入団して「66」を着けた外野手のピンカードが翌56年に2代目の「4」に。ただ、チーム最多の16本塁打も打率.187と安定感を欠いて、オフに退団している。

 その後も1年だけ助っ人が「4」を着けるケースは続き、68年は西鉄(現在の西武)で最後の優勝に貢献した内野手のロイ、翌69年は阪神でエース格の活躍を見せた右腕のバッキーが背負い、ともに古巣でも「4」だった助っ人たちだが、いずれも1年で退団。70年のテハダは近鉄がプロ野球で最初のチームとなる内野手だったが、打撃よりも“ヤジ将軍”としての印象を残して、やはり1年で退団している。75年のアンドリウスはメジャーではワールド・シリーズの経験もある内野手だが、変化球に苦しめられて精彩を欠いた。81年のハンプトンは初打席本塁打の鮮烈デビューも、それが最初で最後の見せ場に。翌82年のウルフも序盤こそ“ミスター3ラン”と騒がれたものの、最終的には14本塁打にとどまった。

「4」の助っ人で初代のカスパラビッチが着けた2年間を最後まで超える選手は登場しなかったが、唯一、その2年間で並んだ助っ人は、近鉄の歴史におけるエポックとなった男だった。ヤクルトで「4」を背負って初優勝の立役者となり、翌79年に移籍してきた近鉄でも同じ「4」で初優勝の使者となった“赤鬼”マニエルだ。その79年は37本塁打で本塁打王にMVP。アゴに死球をつけて骨折しながらもフェースギアをつけて復帰した姿は近鉄ナインを発奮させ、相手チームには脅威となった。リーグ連覇の翌80年は48本塁打、129打点で本塁打王と打点王の打撃2冠。そのオフにヤクルトへ復帰して「2」を着けたが、低迷。1年で帰国している。

近鉄の最後は楽天の最初に



俊足、好守の大石も近鉄で「4」を背負った

 ヤクルトを日本一に導きながら「走れない、守れない」と放出されたマニエルと対照的に、もちろん守れて、何よりも走れる「4」の二塁手が大石大二郎(第二朗)だ。2年目の82年に「43」で新人王、翌83年に「4」を背負うと自己最多の60盗塁を決めて、長く阪急(現在のオリックス)の福本豊が独占していた盗塁王のタイトルに。以降4度の盗塁王、通算16度の2ケタ盗塁。パンチ力も秘め、84年には29本塁打を放っている。日本人の選手としては「4」の6代目だった。

 初代は57年から58年まで着けた左打者の兵頭冽で、2代目は大毎(現在のロッテ)から62年に移籍してきて66年に引退するまで背負った内野手の小森光生。長く準レギュラーとしてチームを支えてきた島田光二がラストイヤーの67年だけ着けて、大洋(現在のDeNA)から移籍してきた関根知雄が「4」で4年間プレー。移籍1年目の71年には自己最多の103試合に出場している。3チーム目の近鉄で3年間を「4」で通した阪本敏三は69年に阪急の「4」で盗塁王となった韋駄天。大石の後継者となった高須洋介が近鉄で最後の「4」だ。近鉄では故障や病気に苦しんだが、近鉄の消滅により“移籍”した楽天でブレーク、2013年に退団するまで「4」を背負い続けた二塁手だった。

【近鉄】主な背番号4の選手
カスパラビッチ(1953〜54)
小森光生(1962〜66)
阪本敏三(1976〜78)
マニエル(1979〜80)
大石大二郎(1983〜97)
高須洋介(1998〜2004)

文=犬企画マンホール 写真=BBM