「投げる精密機械」の異名



ロッテでエースとして活躍した小宮山

 昨年の六大学野球秋季リーグは、「早慶戦」で勝ったほうが優勝という大一番だった。早大がライバル・慶大に対し、9回に試合をひっくり返す劇的な逆転勝利。10シーズン(5年)ぶりのリーグ優勝を飾った。普段は冷静沈着な小宮山悟監督も感情が高ぶる。勝利監督インタビューで恩師・石井連藏氏の野球殿堂入りと同じ年に優勝できたことについて問われると、「石井さんの墓前にいい報告ができるのでホッとしています」と涙を流した。

 抜群の制球力で「投げる精密機械」と呼ばれ、プロ通算117勝をマークした小宮山監督は決して野球エリートではない。芝浦工大柏高ではエースを務めたが甲子園出場はならず。テレビで観た東京六大学野球にあこがれ、高校の教員から「早稲田大学向き」だと言われたことで同校を志望する。高校卒業、予備校に通って二浪した後に早大教育学部に入学。野球部に入部すると1年からベンチ入りし、2年秋からエースになる。3年時に監督となった石井氏と出会い、自分自身を見つめ直す大きなきっかけになった。


早大時代の小宮山のピッチング

 リーグ優勝を目指すのは当然だが、「早慶戦」は絶対に負けられない戦いだった。年齢は小宮山監督が2歳上だが、同学年の大森剛(元巨人)が慶大の四番として立ちはだかった。3年秋の早慶戦では勝利優先のため、9回に大森を敬遠して勝利する。4年生のためにも絶対に勝つと誓ったマウンドで小宮山は敬遠をするつもりだったが、4年生たちが勝負を求めてくれたことに感極まり涙を流した。大学4年間でリーグ通算52試合登板、20勝10敗、防御率1.85。小宮山監督は週刊ベースボールの取材で、「俺は(いつでも、どこでも)ほうれますよ、と。強い気持ちは誰にも負けなかった。それは、石井(連藏)監督から鍛えられたこと。置かれた環境で、知らず知らずのうちに身に付けた」と当時を振り返っている。プロの世界で44歳までプレーしたが、早大で過ごした濃厚な4年間が野球人生の礎になっている。

メジャー流の考えを取り入れて


 ドラフト1位でロッテに入団すると、1年目から4年連続投球回数170イニング以上、防御率3点台とエース格として稼働する。2年目は10勝16敗、3年目は8勝15敗とリーグ最多敗戦を喫したが、チームが下位に低迷して打線の援護に恵まれなかった試合が多かったことを差し引かなければいけない。この当時は直球が140キロ後半を計測し、制球力に長けた投球スタイルではなく、荒々しく力でねじ伏せていた。

 プロの世界で生き抜くために制球の重要性を考えた結果、小宮山は制球、緩急を使って打者を翻弄する投球術にモデルチェンジする。ボビー・バレンタイン監督が就任した95年はメジャー流の考え方、調整法を取り入れたことも功を奏して11勝4敗、防御率2.60。97年は11勝9敗、防御率2.49で最優秀防御率のタイトルを獲得する。

 同僚だった剛送球右腕・伊良部秀輝とのダブルエースだったが、その投球スタイルは対照的だった。伊良部は150キロ後半の直球を投げ込むのに対し、小宮山の直球は140キロにも達しない。だが、抜群の制球力とスライダー、カーブ、スプリッター、チェンジアップ、カットボール、シンカー、シュートと質の高い多彩な変化球を駆使して打者を手玉に取る。


NPBでは横浜にも在籍した

 横浜(現DeNA)、メジャー・リーグ挑戦を経てロッテに復帰すると、05年に新魔球「シェイク」を開発したことでも話題になった。ボールを人差し指と中指の2本の指ではさみ、球を押し出すようなフォームで投げる。80キロ台の超遅球は独特の変化をするため、相手打者はバランスを崩して空振りしていた。

 探求心旺盛な性格で「研究者」のイメージが強いが、チームに貢献したいという献身的な姿勢で首脳陣、ナインの人望が厚かった。長年エースを務めていたが、05年は自ら敗戦処理を買って出て31年ぶりとなるリーグ優勝、日本一に貢献。現役最終登板は09年10月6日の楽天戦。代打・セギノールを1球で右飛に打ち取り、当時の史上最年長記録(44歳21日)となるセーブを挙げ、日米20年間のプロ生活を締めくくった。

 19年から母校・早大の監督に就任して注目度は高かった。3季連続3位と悔しい思いを経験し、昨秋に主将でエースの早川隆久(楽天)を擁してリーグ優勝。学生を育てながら勝つ。小宮山監督の戦いはこれからも続く。

写真=BBM