「34」しか知らない男



巨人でも「34」を着けて通算400勝を達成した金田

 巨人で4例目、戦後では2例目の永久欠番が制定されたのは1970年4月2日。通算400勝を残して現役を引退した左腕の金田正一が背負った「34」だ。ただ、V9が始まった65年に移籍してきた金田が巨人で背負ったのは5年間のみ。2リーグ制となってからの選手の永久欠番としては、その後に制定されたものを含めても異例の短さであり、金田が巨人で挙げたのも400勝のうち47勝に過ぎない。とはいえ、プロ入りから一貫して「34」を背負い続けた金田。のちにロッテの監督としても「34」を背負い、それ以外の背番号を知らない貴重な存在でもある。

 金田は愛知県の出身。享栄商高を2年の夏に中退して、2リーグ制が始まったばかりの50年シーズン途中に国鉄(現在のヤクルト)へ入団。ありがちなことで「4」と「13」は欠番だったが、すでにチームの背番号は満席に近く、「34」との出会いは偶然だった。さすがに1年目こそ8勝にとどまったが、金田は2年目の51年から全盛期に突入したと言える。明らかに戦力では他チームに届かない国鉄で、リーグ最多の21敗を喫しながらもノーヒットノーランを含む22勝。以降、国鉄ラストイヤーとなる64年まで全シーズンで20勝を下回ったことはない。

 57年には完全試合を含む28勝で初の最多勝、翌58年には自己最多の31勝で2年連続の最多勝。この2年間は最優秀防御率にも輝き、全盛期の中でも絶頂期と言える。63年にも30勝で3度目の最多勝。だが、64年オフ、首脳陣との確執に加え、国鉄と提携していたサンケイに自分を排除する動きがあったことで、当時あったB級10年選手という特権で巨人へ移籍した。金田が去った国鉄は、翌65年シーズン途中に球団をサンケイに譲渡。そして金田の「34」も顧みられることはなかった。

 一方、金田を戦力に加えた巨人は2年ぶりリーグ優勝、そして日本シリーズで南海(現在のソフトバンク)を破って日本一に。だが、ヒジ痛に苦しんだ金田は11勝に終わる。それでも防御率1.84で3度目の最優秀防御率。それ以上に、金田の野球に取り組む姿勢が巨人ナインに与えた影響は大きかった。翌66年は初めて規定投球回に届かなかった金田だが、その翌67年には復活して、以降2年連続2ケタ勝利。ラストイヤーの5勝で、前人未到の大台に乗せた。通算400勝だけでなく、298敗、365完投、投球回5526イニング2/3、4490奪三振などもプロ野球の頂点で輝く数字。この間、巨人はリーグ5連覇を達成して、金田も5年連続で日本シリーズに出場、日本一に貢献している。

 巨人で永久欠番になった金田の「34」だが、もちろん金田が移籍してくるまでは特別な背番号ではない。ただ、どこか金田と対照的な物語が流れていた。

移籍1年目で最多勝に輝いた右腕も



金田の前に巨人で「34」を着けていた相羽

【巨人】主な背番号34の選手
中村政美(1943)
永井洋二郎(1949〜50)
義原武敏(1956〜61)
相羽欣厚(1962〜64)
金田正一(1965〜69)

 初代は43年に入団した中村政美で、翌44年に背番号が廃止されたことで着けたのは1年だけだったが、43年は投手、44年は正三塁手を務めながらも2試合に登板した“二刀流”。戦後、「34」が復活したのは49年で、捕手の永井洋二郎が50年まで着けている。51年に塩崎正人が1年だけ着けた「34」だが、52年と53年は辻村隆と三浦方義の2選手が着けたという資料が残る。塩崎と辻村は一軍出場のないまま引退、54年からも「34」だった三浦も巨人では勝ち星のないまま55年オフに大映(のち毎日と合併、現在のロッテ)へ移籍して「51」となったが、いきなり29勝を挙げて最多勝に輝いている。

 その後も巨人から移籍したことでブレークする選手は少なくないが、その先駆けといえる存在だ。その56年に巨人へ入団して「34」を着けた義原武敏は左腕で、4年目の59年に初の2ケタ10勝も、61年オフに近鉄へ。後継者となった相羽欣厚は金田の移籍で「34」が“剥奪”されて「25」に変更したが、その65年には王貞治、長嶋茂雄の“ON砲”が並ぶ巨人で四番を打ったこともある外野手。キャリアハイを迎えたのは南海へ移籍してからだった。

 巨人で永久欠番になった「34」は、多くのチームで左腕の背番号となった。その傾向が最も希薄だったのが国鉄の系譜に連なるヤクルト。金田の後継者になるのも重責ではあるのだが……。

文=犬企画マンホール 写真=BBM