3代目は“超二流”の盗塁王



バットコントロールに長けた近鉄の背番号「7」小川

 阪急(現在のオリックス)の“世界の盗塁王”福本豊や、V9巨人の“赤い手袋”柴田勲ら、韋駄天の背番号という印象がある「7」。外野手、特に左翼手や、左打者が多いのも特徴だが、この傾向は近鉄の系譜にも当てはまる。「どんどん愛着も出てきました。ふだんから、なんとなく7という数字が気になったし」と振り返るのが、最長の17年間、近鉄の「7」を背負い続けた小川亨。一塁手ではあるが左打者で、ほのぼのしたムードで“もーヤン”と呼ばれた姿とは裏腹に、若手のころは韋駄天だった。

 ドラフト3位で1968年に入団、1年目から「7」に。「ちょっと入団が遅れたから、いい番号が空いてないんじゃないかと思っていた。うれしかったですよ。ラッキー7ですし」と小川。1年目から95試合の出場ながら10盗塁を決めると、以降7年連続2ケタ盗塁と、主に一番打者として打線を引っ張った。近鉄にとって初のリーグ優勝は79年だが、“初優勝”は75年。当時のパ・リーグは前後期制で、前期と後期それぞれの優勝チームがプレーオフでリーグ王者を決めていて、75年の好機を制したのが近鉄だった。

 その75年のシーズン通算で出塁率.394で最高出塁率となったのが小川。打順は二番が多く、「初球は見逃すクセがあった」(小川)というが、わずか18三振。少ないだけではない。180打席連続無三振、空振りは20回のみで、122球に1回しか空振りしなかった計算になるから驚異の選球眼。「7」のある背中から見て「く」の字に体を曲げる“くのいち打法”も、じわりとインパクトを残す。79年には12本塁打、翌80年には15本塁打に加え打率.323でリーグ連覇に貢献。84年までプレーを続けて、通算1908試合出場は近鉄で最多の数字として残っている。

 近鉄の歴史が始まった50年から背負った「7」の初代は内野手の永田隆次。まだ「7」にイメージが定着していない時代だ。31歳の入団でもあり、1年目は主に三塁の控えで34試合に出場したが、2年で引退。続いて毎日(現在のロッテ)から移籍してきて後継者となった奥田元も内野手で、やはり2年で引退したが、これで風向きが変わり始める。奥田は毎日1年目の50年に43試合の出場ながら13盗塁を決めて優勝に貢献した韋駄天。54年に3代目となった新人の鈴木武が、韋駄天の特徴を加速させていった。

 強肩ながら遊撃守備には難があり、それでも1年目から全試合に出場、翌55年には71盗塁を決めて盗塁王に。この55年には投手の田中(武智)文雄も最多勝となり、両者は近鉄で最初のタイトルホルダーでもある。遊撃守備も着実に安定感を増した鈴木は、60年シーズン途中に大洋(現在のDeNA)へ移籍すると、初優勝、日本一に貢献。日本シリーズでは技能賞に選ばれ、のちに近鉄でも指揮を執る三原脩監督から“超二流”と言われた男だ。

ラストシーンは“三拍子”そろって



近鉄最後の背番号「7」は大村だった

 鈴木の移籍で「8」を着けた東田巍は捕手だったが、3年で引退。続いて5代目となったのが東映(現在の日本ハム)から移籍して2年目、「13」から変更した内野手の木村軍治だが、レギュラーは奪えず。その引退で後継者となった小川が近鉄の「7」で最初の左打者だった。

 近鉄ひと筋を貫いた小川の引退で、85年は欠番。翌86年に「7」を継承したのが巨人から移籍してきた左打者の淡口憲治だった。打球スピードは球界きっての淡口だったが、巨人での主な仕事は代打の切り札。だが、近鉄では左翼の定位置をつかみ、89年のリーグ優勝を見届けて現役を引退している。ドラフト2位で翌90年に入団した外野手で左打者の畑山俊二が「7」の後継者となるも、94年から「38」に。新たに「7」を背負ったのが右打者ながら外野手の中根仁だった。

 中根も98年に横浜(現在のDeNA)へ移籍して38年ぶりリーグ優勝、日本一に貢献。1年の欠番を挟み、99年に「7」となったのが大村直之だ。守ったのは主に中堅ながら、韋駄天、外野手、左打者という「7」の“三拍子”を兼ね備えた選手だったが、これが近鉄における最後の「7」でもあった。大村は05年に移籍したソフトバンクでも、オリックスでバファローズに“復帰”するまで「7」を着けている。

【近鉄】主な背番号7の選手
鈴木武(1954〜60)
小川亨(1968〜84)
淡口憲治(1986〜89)
中根仁(1994〜97)
大村直之(1999〜2004)

文=犬企画マンホール 写真=BBM