“炎の中継ぎ投手”の背中で



ホークスでは藤井以降、「15」を背負う選手はいない

 21世紀に黄金時代を謳歌しているソフトバンクは、1リーグ時代の1938年に結成された南海が起源。当時は春季と秋季の2シーズン制で、プロ野球に参加したのは秋のシーズンからだった。戦後は46年にグレートリングとして初優勝。翌47年シーズン途中から南海に戻ったのが、ホークス誕生の瞬間だった。2リーグ制となって大阪を本拠地として50年代に黄金時代を築いたが、球団がダイエーに譲渡された89年には本拠地も現在の福岡へ移転。2005年にソフトバンクとなった。

 この長い歴史の中で永久欠番はないが、欠番が続いている背番号が少ないながら存在する。ひとつは、73年の優勝を最後に長く低迷が続いていたホークスを、ダイエーとなって初のリーグ優勝、日本一に導き、黄金時代を築いた王貞治監督の「89」で、王監督が勇退した08年が最後だ。そして、もうひとつ。21世紀に誰ひとり背負っていない、つまり、ソフトバンクでは誰も着けていないのが「15」。最後に背負ったのは、セットアッパーとして99年の歓喜に大きく貢献した“炎の中継ぎ投手”藤井将雄だ。だが、そのオフに末期の肺ガンが発覚。ダイエーは翌2000年にリーグ連覇、「15」を着けたぬいぐるみも胴上げで宙を舞ったが、藤井は巨人との日本シリーズンを目前に控えた10月13日に死去した。永久欠番の原点という意味で、永久欠番よりも永久欠番らしい事実上の永久欠番が、この「15」だ。

 一般的に「15」は投手のナンバーで、藤井も投手だが、ホークスの系譜は複雑でドラマチックだ。初代の栗生信夫は南海の結成に参加して「15」を背負ったメガネ姿の内野手だが、主な役割は外野のバックアップ。1年目は全40試合のうち25試合に出場したが、翌39年オフに引退した。以降、長く着ける選手は少なく、ポジションを転向する選手が目立つ系譜となっている。40年は瀬戸口一生が着けるも、出場のないまま、すぐに外野手の富永嘉郎が継承したが、通算5試合の出場。戦後、松川博爾が投手として初めて「15」を背負い、8勝を挙げて初優勝に貢献した。松川は48年オフに社会人へ転じ、50年に広島でプロ野球に復帰して1年で引退している。

 この間、49年に投手の中津正三が着けたが勝ち星なく、1年で大洋(現在のDeNA)へ移籍して外野手に。2リーグ制となった50年からは投手の安田昌雄が背負うも、通算1勝で52年に社会人へ。安田も東映(現在の日本ハム)で復帰したが1年で引退した。その52年に安田から受け継いだ今井洋行も投手で、翌53年に1勝も、それが最後の勝ち星となった。今井の引退で継承したのが外野手の大沢昌芳。日本ハムの「86」で紹介した大沢啓二のプロ1年目だ。

1年目でレギュラーになった男も



83年から86年まで南海で「15」を背負った池之上

 大沢の移籍により新人で内野手の田坂正明が新たに「15」となったが、1年で「10」に。そして66年。日米を股にかけた二重契約の騒動もあったが、日本人で初めてメジャーのマウンドに立ち、凱旋したばかりの“マッシー”村上雅則が継承する。村上は復帰3年目の68年に12連勝を含む18勝、リーグトップの勝率.818など活躍したが、75年に阪神へ。大沢と村上の9年がホークスの「15」で最長だ。その75年に新人で捕手の米谷延夫が後継者となるも、1年で外野手に転向して、5年で引退。阪神から移籍してきたサブマリンの上田次朗が継承したが、82年シーズン途中に阪神へ復帰する。

 翌83年から背負った池之上格は一塁のレギュラーとなりリーグ最多の16死球を食らったが、もともとは「36」の投手で、内野手としてあらためて投手ナンバーを着けたことになる。池之上は87年に大洋へ移籍、シーズン途中に広島から加入した森脇浩司を経て、翌88年に後継者となった畠山準もドラフト1位で83年に入団した「11」の投手だったが、この88年から外野手としてプレー。南海で最後、ダイエーで最初の「15」となった。

 畠山は90年に「44」となり、村田勝喜が「15」を着けるもシーズン途中に「18」となり、中日から加入した高島覚、92年からは2年目の江口孝義と投手がリレーしたが、いずれも長続きせず。そして、95年に「15」を背負ったのが新人の藤井将雄だった。

【ソフトバンク】主な背番号15の選手
大沢啓二(1956〜64)
村上雅則(1966〜74)
米谷延夫(1975〜79)
池之上格(1983〜86)
藤井将雄(1995〜2000)

文=犬企画マンホール 写真=BBM